かつて愛した女たちが子供を産み、老いていくなか、わたしは独り取り残される。 幼きまま、彼女たちの愛に飢えたまま。 ― 拙句
ひとが思わぬ形で傷を受けてしまったとき、駆け込む場所がある。それは専ら病院である。精神的に病んだなら、精神科になるだろう。最初は恥ずかしがりながら通って、薬をもらい、戸惑いながら投薬を続けるが、なぜか途中から患者は診断名を誇り出す。「わたしは〜〜症候群なんだ」と臆面もなく自身と病気の一種を結びつけると、その時点でもう誰も「あなたは〜〜症候群の一疾患である○○を患っていると診断されたんですね」とは言い返さなくなる。もし専門用語を一つ間違えてしまったなら、患者はふん反り返り、「まあ、分かる人には分かるんですけどね」とまるで質問者の無知を元凶扱い。だが著名な医師の話となれば襟を正して聞き、そこに含まれる矛盾を讃えてしまう。
ここまで書いてしまったら分かることで、〜〜症候群とは文化のことである。全ての文化は腐りきり、病気と化す。原理主義や資本主義に関しては言うまでもない。芸術の分野においても猖獗している自我の安売りは、他文化理解として国家規模で推進されている。倒錯=フェティッシュに他ならないこの動き。筆者のある知人はひとの受洗の齢ばかりを気にしながら、信者を迫害した上で教団を乗っ取ったパウロを信奉することに疑いを持たない。別の知人はシリコンバレーで車も所有せずに仕事と株の情報に熱中しており、(彼の仕事はデータセンターの管理で、いま世界中のエンジニアが彼の管理するサーバーで訓練されたモデルを使用している)、外へ連れ出してもお金のことしか話したがらず、レストランで見かける他者をTCつまり総額報酬で判断する。全く可愛らしい営みであるも、なぜか芸術で似たことを繰り返せば讃えられる。特に困ってしまうのが、文学で、大学で学ばれているからと言って、なぜそれが書かれたのか、読まれたのか、集団の心理まで穿ってみる者は限られている。近代小説の描写のほとんどはカトリシズムの体系をエロティシズムに転用したフローベールを基礎としジョイス→フォークナー→中南米の作家たちから発したものであり、もっと遡ればセルバンテス、シャトーブリアンなどと、そもそも宗教感は拭えない。だれも「嫌だ、わたし知らぬ間に宗教やってる」と振り返りもせず、論文の題名だけみても、推し活と変わらぬことが延々と続けられているのだ。音楽も大して違いはない。狂信者の発見した平均律に従い続けた数世紀、今では演歌の小節もLil Babyのヴァースも賛美歌と変わらなくなっている。
宗教家が学びを深めている間に急いで抵抗の術を身につける。われわれは文化と同一化してしまってはならない。そのためには特定の文化に依存しない、真の作品を生み出す必要がある。筆者は人生において大事な時期(そんなものあるのか?)を凡庸な小説を読むことに費やし、パンデミック中に記したネオロマン主義小説(あえて感情を放出させることで感情から脱しようとする小説)で失敗しながら、別の文学空間を見出し始めている。文学は二次創作ではない。一人ひとりが独立するために、常に外を歩いて体力を身につける必要がある。