あられもない匂い、舌触り、感覚に満ち溢れた、ある街の一スケッチが、風雨に曝され、内ポケットに揉まれ、気づいたうちにはただのメモに変わっている。多くは消え去った。消えてなくなった。わたしの身の回りにあるフィルムもあの音楽も視聴しすぎてガラクタとなった。忘れなくてはいけない。忘れよう。わたしが書くのは忘れるためなのだ。修辞は必要ない。辞書も必要ない。必要なのは人生に匹敵する長さだけなのだ。空気の新鮮さに肺が軋んだ。秋が明確に終わって幾日かがすぎていた。道路に土埃ひとつなく、端を野草が覆い隠した。何やら心がざわつき、部屋のなかを歩き回った。それは足を一歩踏み出すごとに、踵から胸のあたりに押し寄せて、小さな、だが心地のよい感覚をもたらし、わたしにため息を吐き出させた。数千枚の紅葉が落ち、木々は寒さに荒んだ。この数本は市役所が切らずに残したうちのいくつかだ。多くは晩秋に回収されていた。向かい窓には女たちが集まっている。それまで木々が隠していた窓には新しい生活があり、わたしを和ませた。
路地がどこまで続いているのか見えてこない。
隣人が自転車のかごに果物を載せて階下にいる。娼婦たちが呼ばれて、かごから何かを取っていった。わたしは彼を呼びつけて、中に何が入っているのか尋ねた。
「林檎ですよ、実家から届いたんです」
彼は白い布をめくり、かごの中身を階上に覗かせると、またどこかへ去っていった。林檎は黄金色をして輝いていた。わたしは金色をしたその果実が思い出させるなにか、感覚、ある場所、ある人物を思い浮かべながら、地道に言葉にしていき、それらを書き留めた。同じ時、向かいの窓は暖色の明かりを洩らした。彼女たちがかじり始めた林檎は淡く、色を失ったようで、まるで透明ななにかに見えた。こちらは陰りゆくなか、通りにぽつぽつと光が照った。わたしはジャケットを着て、部屋の隅で窓からの風を浴びた。電車が通っていった。降車する客のなかに見知った人はいない。煙草を燻らせ、寝台に置いた。平日の夕方を静かに過ごしていると、ひとりでに生まれひとりでに死ぬシーザーのような感覚を胸に覚える。わたしは愛しすぎてしまう旅人の過ぎゆく気持ちでいた。夜がとうとう暗く押し寄せてきた。
「男のひとり暮らしって気楽よね」
ヒーコと夏にそんな話をした。職業柄慣れているだろう好意の表情を信頼したわたしは、皮肉かもしれない発言に同意した。彼女たちはわたしが即座に好意を抱いたことも分かっていた。そうした夜の容易さに身を任せていると、わたしまで目が眩みはじめたのだった。本当に美しい場所には留まれない。
わたしはただのご近所だった。酔った同僚が運ばれた。ほこりを被りながらもわたしのなかで調和の取れている机や棚が乱された。まだあの日の跡が見て取れる。すべてが過ぎたが、何かがあの窓に残されたようだった。
わたしは二つ折りの紙を取り出し、図面を書いていた。愛着を持って書き上げたのだったが、翌朝までに時間があった。こんなときはいつもマーサに電話をかけていた。彼女の呼出音は鳥の低く鳴く声がする。わたしはどこか疲れを受話器に注ぐようにしてそれを聴いていた。このまま着信拒否にでもしてくれないだろうかと願いながらも、いつも数分経ってから彼女は応答した。とても騒がしいところにいて、大抵どんな事も聞いていないのだった。
「もういいわ、帰るから」
「よくわかりませんね、どこに向かっているんですか?」
わたしは初めて聞く地名に適当な解釈を加えながら、美しい女が動き、その都度世界の中心がずれていくのを体で感じた。わたしたちはオンラインで出会った。そしてオンラインで会話をし続けている。時折感じたのは、わたしたちは互いにとって会話用のロボットではないかということだった。直接会ったところでその感じは拭えなかった。だが愛は溢れ出した、製造された。人が何者であるかというのはどうでもいいことで、別に人間でなくとも問題はない。
だが彼女が中絶を選んだとき、自ずと二人は離れていった。われわれに純粋さなど残っていなかった。
自分名義のこの部屋もわたしには相応しくないように思える。いっその事、適切な誰かに受け渡したい。大部屋は彼らに使ってもらって、わたしは隅に置いてくれるだけでいいのだから。わたしは一体この部屋に住むだけの何をしたというのか? けれども耳ざといわたしには静かなところが必要だった。今の時代、誰しもが耳ざとく、他人の部屋などには入りたくないのだ。
通りの先で微かに鳴る木々の音が、母親の呼ぶ声に聞こえる。浅い眠りから目を覚ますと、時計が緩慢に針を進め、また多くの時間をわたしに押し付けた。幹には軽く露が張って側溝まで濡れ浸っている。ふたたび、窓から顔だけを出し、タバコを吸った。どういうことか、通りの先へとゆく集団は、わたしととても近い人々のように見えた。それに別段心地よさを感じない。クリーム色の壁は灰色に浮かび、朝までの時間が長引いたようだった。息苦しさを感じ、煙を吐いた。机に座って、画集を開き、難しい感覚がどう筆に訳されるのか調べた。それからポルノをみた。ある女がアメリカの農園で裸になっていたのだった。切り株の上で開脚する様は、虫たちをも驚かせていた。わたしはいくつか思い当たる地名を脇で確認しながら、カメラの動きに注目して、コメントを送った。そこでは制約上、愛の言葉ばかり飛び交うが、わたしも似た発言をしたに過ぎなかった。いくつか面白いコメントを読み、女と同時に笑って、しばらくしてから画面を閉じた。「おやすみなさい! 日本より愛を込めて」。
縦長い部屋の真ん中に置いた寝台から机のさきの窓を眺める。横の窓は時折り悪臭が入るために締め切っていた。女たちの部屋は暗く、何も見えてこないが、おそらく暗幕が掛かっていた。冬の大気は黒をより濃く見せ、山のほうまでもを一色に染めた。それほど遠くに住む女のことや、近くに住んでいながら面識のない女の生活が、わたしを囲っている。少し陰茎を触ったが諦めた。思想があまりに行き過ぎたのだった。血管が膨らみ、軽く耳を鳴らして、視界を瞬かせると、暖色のライトが緞帳のような厚さのカーテンから漏れ、女たちの行き交う姿が見えだした。わたしは自らを圧迫しない形で深い呼吸をし、ゆっくりと起き上がって、窓辺に向かった。
「ヒーコ」
クレアの高い声が届く。こちらが見ていることを知らないはずの彼女たちの背中が光り、同僚を運び込んできたときの肩の曲線を思い出す。わたしは愛の凶暴性を感じる。あまりに愛しすぎたとき人は、予想外の動きに驚き、寛容さを失ってしまい、対象が意に沿うよう折り曲げ、変形し、自らの皮膚に寄り添わせる。あまりに多くの時間をポルノに費やした。とうに見ることのできないはずのそれらがパソコンから流れてくるよう技術を費やしていた。決してそれを見ている自分が好ましいと思わない。わたしは女たちを捻じ曲げ、押し込め、吸い取るような男だ。複雑な手段を使って現金を仮想通貨に変え、女たちに送る。「このお金でお尻を叩かないように」。嗚呼、全く意味の通じない言葉だ。だが女たちはそれを理解し、数分間尻を叩くのを止めにする。わたしの思想など掃き溜だ。だが今はそうでも、また止まらなくなるのだ。
ヒーコは再び呼ばれた、伸びやかで明朗で喚起的な声で、居間に出てきた。わたしが暖色のライトをそこまで好む理由はわからない。しかし、彼女が照らされたとき、森のレストランにいるような感覚を覚えた。自分がそこまで美しい場所に行ったことがあるかは明白ではない。なぜならいつでもわたしの存在がそこをどこか卑俗で野鄙な場所に変えてしまうからだ。わたしは他者に対して陰湿であろうとした試しがない。おそらく生まれの土地の影響がわたしの感性に働いた。わたしはすぐに愛を告白する。だが自らの内以上に安定して美しい場所は見つけられない。つまりヒーコを見ていてわたしが飛ばされて行ってしまうような幻想的な土地は、わたしの内側にあり、おそらく彼女はそれを引き出してくれるのだった。
しかし真夜中だった。時折り男たちの出入りがあるだけで、女たち以外に起きている人間は見当たらなかった。わたしは人が生きて動いているということに驚きを膨らまし、長時間そうしていれば十分だと感じた。風が巻き上がり、夜明けの寒さが近づいてくる。雲の連なりが撓み、薄っすらと色を失いだした輪郭が、辺りを毛羽立たせる。ヒーコはまた別の服を着ていた。どうも昨日より顔が丸く見え、わたしは一日の経過というものに疲労を感じ始めた。クレアは周囲を騒々しそうに見てソファーまで廻った。画家らしき男は裸だった。その男はわたしだけではなく、市全体が知っているほど名前の売れた男なのだった。画家は股間のあたりに何か重要ものを抱えたように体を丸めているが、わたしの見る限りそこには薄っすらと陰毛が生えているばかりだった。クレアが足を引っ張り、男が伸ばされる。ヒーコは肩を持った。両腕を一方に垂らした男の頭には冠のような髪の毛が頭頂部を抜きにして纏わりついている。
ヒーコはそれに一枚羽織っただけの格好で近所を歩き駅近くの集会所にゴミを捨てると、煙草屋に寄る。其処此処に暗い模様が残る明るい通りに視線を投げて、端の方を縫って歩く彼女は慎重さそのものであり、小銭は間違いのないよう数えて、あとは一枚羽織っただけのジャケットに放り込む。「お兄さん飲むの?」と通りがかりから錆びたライターを借りて火をつけ煙を吐く。界隈は煙だらけで、朝には合わない言葉が煤けた看板に並ぶ。ぎらついた男たちの目が、朝には尖って見える。だが羞恥はなかった。生活の一部であり、紛れもなく仕事であった。何かを閃かせる体の動き、つまりは女優やダンサーのそれが、商売人の態度と同居し、立ち止まればモデルのそれとなる。ヒーコはしばしば誇らしげに一日を語った、例えそれが不満に満ちていたとしても。彼女は交渉人であり、専門家であり、臨床師だった。他に一体何を望めるだろう? 彼女は秀麗だった。安定した人間というのは往々にして、不安定な人間を呼び寄せる。
彼女たちは空いたソファーのブランケットを巻き上げ、背もたれから真っ直ぐな線を流すと、抉られた男の痕を閉じて平らに収めた。膝を丸め、脇に寄りかかった。移動する物体のなかで横を過ぎてゆく木々のように唇を動かし、あたりに心地よさを生んだ。ヒーコとクレアは向き合い、足元からグラスを持ち上げれば、少し液体が零れた。ヒーコは厚い脇の毛を背もたれにかけて深い呼吸をした。クレアは裸のままヒーコの膝に倒れた。彼女たちは娼婦の淡白さをみせ、冗長で指示語に溢れた話をし、可能な限り記憶を拭い去る。出口までの通路から男たちが出てきても、もう立ち上がらない。壁の端から端まで彼女たちの空間になる。あらゆる所に自分ではない自分がいてやり取りをする。ここにいる生身の自分は自分だが自分ではなかった。例えば木々の揺動がわたしだった。彼女たちは多くの秘密を握っているかのように振る舞った。風に吹かれた池が波紋を広げるように、わたしの視線は次から次へと新しいところへと導かれ、やがてそれが半ば夢のなかへと引き込まれだしていた。だが正気を保っている。わたしは一時的な拘束に過ぎない体というものを踏み台にし、隣人の隅々を探査しようとして通りを見すぎる、ほとんど自慰の代替に近い行為を持続しながら、寝台に横たわっていた。マーサと離れてから、何人かの女がわたしに好意を寄せた。ひとりは金を取らない娼婦のような女で、一日にひとりは男を欲していた。コーヒーテーブルに置いたわたしの手を包み、無理にでも連れて行こうとした。彼女はわたしが特殊な不能状態にあることを理解しようとはせず、どうしても確かめたがった。だが近づきすぎた場合に、想像は働かなくなる。痛みだけがわたしに襲いかかった。あの女はわたしを去勢してしまったのだった。わたしは知っていた、引っ越すべき場所を。例えば夕暮れの通りで女とすれ違うとき、許される一瞥のなかで、一体どれだけの感覚が引き出されようか? ここは際限ない場所なのだった。女たちへの敬意は無尽蔵となった。わたしは電車に乗って、この地区に帰ってくるとき、その低い建物の並びに安堵を覚える。そうして女が紛れもない目的で鋭く露出している脇を過ぎ、四肢を垣間見るとき、わたしの目的は達せられたと思う。深い呼吸を女たちとともにすれば、首のあたりが伸びて、夜は終わるだろう。起床した途端に、わたしはまた一からやり直さなくてはならなくなる。
新しい女が訪れれば、まず落ち葉のようにかさついた衣服が擦れて、階下で足音が響き合う。「こんにちは」と言って間違った部屋に入り、興味深げに覗き込む。冷蔵庫は入り口付近、棚は西側ね。はじめて訪れたヒーコはいちいちを口に出して確認した。彼女は整然とした女だったのだ。それから衣服を置き、尋ねる。「それで?」。わたしはため息をつき、彼女を傷つけないよう十分配慮しながら、「ここははじめて?」と聞いた。彼女は頷いた。「きっと簡単なことかもしれない」とわたしは考えた。男が部屋にいて、女が入ってくる。気に入れば仕事になって、そうでなければまた別のところに行くだけなのだった。
五日間を家で過ごしながら、多くの時間を路地の観察に用いたために、寝台にいても古びた毛布の下では外出の感じが拭えない。性行為を止めてから体臭は消え去っていた。代わりに端のバーや、女たちには常識でわたしだけが名状できずにいる香水の、遠い匂いがふと忍び寄ってくる。もしかすれば、そんな香りはここには届いていないのかもしれない。だがそれを確かに嗅ぐとき、鳴ってはいない音楽が聞こえるとき、調律を経ない感覚が、常に思い出と唱和する。三十年の経験が生活を楽にしていた。どれだけの悲しみも、制御する方法を人は学ぶ。かつてはこのじゃじゃ馬を馴らすため、どれほどの行為を必要としただろう。だが困難というのは他にあった。通りの男たちが喧しい声を上げるとき、本人に自覚があろうとなかろうと、そこには過去の悲嘆が含まれる。だが女たちの声を聞いたことはあっただろうか? 発せられるものは概して容易なのだ。
ヒーコが座り、へこんだ椅子に、視線をやると、タイツの網目がやさしく光った。「座らせてもらうわ」、と彼女は十秒遅れで囁いた。パースから折った手鏡を取り出し、クリップから外れた前髪をきれいに整え出した。「髪をまとめる必要はないよ」とわたしは呟いた。彼女は少し怪訝な表情をしてから「そうね」と答えた。ヒーコはそれから財布を取り出し、「前払い」と言った。わたしは沈黙して、少しばかり外の音を聞いた。お金を渡してもよかった。それが経済である気がしていた。だけども、代わりに「案内するよ」と言って、彼女の肩を支えた。通りに飲み込まれながら遅れてくる夕方の騒ぎが階下に潜み、今頃になってまた別の声を登らせようとする。地表から音が跳ね返る上空の飛行機が、閉じられたシャッター、鐘や自転車、走り去る車と混交する。音から様子がわかる街というのも妙だ。どれだけ視覚が必要なのだろう。わたしの中で音だけで構築された街は、視覚だけの街と、離れたり近づいたりしていた。音だけの街に特徴的なのは、そこには必ず聞き知った人がいて、時の変装からわたしを引き離し、過去の自分を掘り起こそうとする点にあった。他方で、視覚の街に厳密な意味での知り合いはいない。ひとは目まぐるしく過去と現在とを行き来しながら人々から別れたり再会したりする。
三階から四階は、もともとは一つのフロアを形成していた。それが厚い壁に遮られ、つづら折りの階段が設えられ、別々の階となった。だが縦長さは一緒だった。わたしたちは底の部分から出発して、以前の天井近くにたどり着こうとしていた。翌朝には遠出する予定があり、すでに彼女が付いてきてくれたようだった。踏み板はコツリと鳴って、ヒーコは手すりに触れた。外出の空気が屋根から漏れた。微かに珈琲豆を煎れた匂いのする風が、体を適度に湿らして重くした。本当に狭いわ。あなた、先に行ってくれない? 引っかかっちゃいそうなのよ。ヒーコは体勢を崩して色々なところを見せた。四階に踊り場はなく、落ちていってしまいそうな彼女を捕まえるようにドアをノックした。そこに住む紳士は巨漢で、わたしはこっそりとだが彼をウェルズ氏と仇名していた。ウェルズ氏は裸で待っていた。「どうだろうね、一杯」とお札を一枚わたしに手渡しながら言った。「他所から届いたんですよ」。わたしは少し困惑した顔で断った。ヒーコの方をみた。彼女はそうしたことに慣れている様子だった。「ごめんなさいね」と、降りてくるヒーコは少しだけドアから顔を出し微笑む。わたしはヒーコを呼び止め、引き出しの中のお札を何枚か取り出し、彼女に渡す。ヒーコは暖色のライトの方へと消える。それから何時間か、わたしは心地よい気分で過ごす。
客をもて成す段となれば、ヒーコはモスリンの軽い身なりで奥から出てきて、まず居間のソファーに導いてゆく。彼女は何かしらの特別な言葉を投げかけ、わたしたちのなかに彼女のための場所を作り出すが、それは彼女の中に自分があるという理解である。確かめようのない高次なものなのだが、魅力的であることには違いない。一旦離れれば、自らは分かたれたまま彷徨い、そうして新たに発見することになるのだ。暇な人間のみが追跡出来ることだが、自らの言動は多く記憶にある範囲の事柄から形成されている。犯罪者はひとりでは生まれず、外野から眺めれば意味を成さなくなる観念が、巷を賑わせる。だが「忘れっぽい女」のことを思い出していただきたい。まれに遭遇するそうした女の忘却こそ知性と呼ぶべきものであり、この知性は変転した価値概念と無縁であり続ける。彼女たちに固有のイメージがあるとするのならば、それを見つめた途端、捻り切った思想は黒光る夜の輝きのもと燃焼するだろう。どうしようもなく放埒で自由な、だが、美しい発見を、老若男女のほうぼうにするとき、わたしは分散していることを知る。わたしは女なのだ。
鶏鳴に明ける夜の騒ぎが凝った雲の隙間で裂けてゆく暗幕のもどかしさのなか和らいだ。十六人の娼婦は各々が考える: ようやく夜を終えた、仕事を終えた、いったい何を食べよう? 間取りを異にする十の部屋に等しく外の酸素が流れ、上着を着て暖房の近くに集まり肌を温めると、一日の始まりから思い出す。何も変わらない一日、また同じ一日。濡らしたシーツは山の灯火に透け、ゆっくりと揺れる風車は暁光に底光り、それが窓ガラスへ噴出して映る。
奥ゆく電車の蒸気が漏れて、視界は浅くなった。城めいた丘の住宅街は移ろい、まぶたが薄く畳まれるなか、朝の体からは疲れが甘く立ち昇り、思考がみだらに風景と絡み合う。配達夫は磨き上げた靴でペダルを踏み込み、後頭部の髪を膨らました。間もなく七時だった。新聞を受け取るため非常階段を降りていったクレアは辺りの散らかり様にうんざりしながら、ごみの一つ一つを足で蹴飛ばした。なかには砂糖水が入っていたものもあり、彼女の赤いヒールは飛沫でベタつくことになった。ターシャは上から吸い殻を落とした。グラボはつづいて水を流してきた。清掃車が通るまで道は黒く湿ったままだが、昼には陽光を浴びてからりと乾き、石の白さをみせる。
女たちのなかには買い物に出るものもあれば、調理場でパンに細工をして舌を誤魔化すものもいる。健康的な食事も同様に上塗りして食するために、それが一体良いものであったのかが分からなくなっていた。クレアは自転車の荷台から朝刊を一部抜き取ると配達夫のこめかみに口づけして階段を登り、出ていこうとするターシャを引き止めジャケットを着せた。木枯らしが吹くなか、平然と肌を晒すような女を彼女は放っておかなかった。クレアは熟練のオーナーとして振る舞い、女たちの垢から肉刺まで鋭く観察したものの、とくに自らが清潔で清楚であることにはこだわった。そうした熱心さは適度なところに浸透し、あちらこちらに程よい隙を生み出して、館(彼女たちはそう呼んでいた)を心地よいものにした。
複数段の階段が辺りに点在し、それが間欠的に伸びて勾配を生む地区の先には車なしには行きようもない草地が顔を出し、互いに影を深め合う手前のブロックとの時差が見て取れる。窓際の埃を拭き取り、部屋に新鮮な空気を入れると、景観から景観が小さくまとまり、ひとつになって押し寄せた。
ヒーコは朝食を済ませたばかりだった。クレアは、一方、細かい作業に追われて砂糖の一粒も口に入れていなかった。グラボに卵を焼いてもらい、ふたりは皿と甘いお茶をいれたカップを運んで、奥の窓がない部屋へと引きこもった。
そこには牛皮をまとった机のうえに会計帳簿があり、新聞と文庫本との層を形成していた。クレアは万年筆を転がして空間をつくり、食器を載せた。換気扇も取り付けられていない場所だが、書棚や椅子の木々が強く匂い、不思議と生活臭が残らない。もっとも肉のような重いものを彼女は部屋へと運ばなかった。彼女は時折感じる自らの香りを好み、それを蓄積するかのように部屋の戸締まりにかんし慎重であったが、宝石店やデパートの人間が訪れるときは精油を混ぜた水道水を霧吹きで出して、居心地を新たにした。
ヒーコとクレアは向き合い、互いを慰めた。新聞の細かいところまで目を通したすえ、何も急いで結論を求めることはないと決めた。それからお茶に手を出した。彼女たちはそのお茶がどこから来たものだったのか、しばらく思い出そうとした。だが無駄だった。またすぐに新聞へと目をやり、屋外の騒ぎが留めた痕跡を何度もなぞって、体に焼き付けてしまった。
—— 殺されていたかもしれない。
双方が考えた。閉じた部屋のなかで安らぐことも、白昼の記憶に揺さぶられてままならない。新聞と重なり合う帳簿から一枚の封筒をクレアは取り出した。スクランブルエッグは黄色いまま冷え、お茶の湯気はカップの滴に変わっていた。それらを口に入れたところで味の確かめようもなかったが、あとから来る時間のため自らの前に置いたまま彼女は眺めやるのだった。
—— これで手を打てないかしら。
ヒーコは頷かなかった。オーナーの望みは分かっていながらも、撫でた封筒の角から発せられる乾いた音のなかに何か驚かされるものを聞いた。彼女は首肯することもできた。受け取り、荷物をまとめて、空港へと向かう手順も素朴ながら頭の中に浮かんでいた。けれども、ここを離れて田舎暮らしをするということが、働き盛りの女にとって一体何を意味していたのだろう? こうした女たちの悲哀というのは直接でもなく即時的でもなく、あとから演繹的に理解される。あまりにも事象と思考を分け隔ててしまったがゆえに生じる悲劇もあれば、不釣り合いなほどの思慮を対象へ押し付けたことによる悲しみもある。だが男たちはたった一瞥で物事を知ろうとする。
—— 嫌だわ、ここから逃げるなんて。
台所から届く女たちの声が部屋のなかで反復し、あとに蛍光灯や電気の細かい雑音を残した。穏やかな日差しが地区へと伸び、昨夜のものをめくり取る時刻も、奥の部屋までは及ばない。居間の電話が鳴っていた。それから牛乳屋が来ていた。接客のすべてが扉の先で執り行われ、廊下の緩衝を経て伝わる。
—— 少しのあいだは休んでもらわないと。わたし一人じゃ構ってあげられない。
二部屋先のところで寝かせていた画家が起床して布団を引きずり出している。防寒着を持たないまま夕方の温もりのなか訪れ、朝には周囲の布を纏うしか手段がなくなるが、彼と女との間には大きな距離があり、互いに観察者の立場でしかない。どうしたことが起こっているのか確認するために換気を終えた館の端から端を漫ろに歩き、他に男がいないことを見てとり安堵していた。
—— とっても快活な朝だ、いいなあ、いいなあ。
グラボは歩き回る画家を導き、台所の椅子に座らせて、お茶を飲ませた。それから軽く焦がした食パンが中心のブレックファストを給仕したものの、それらは後の勘定にきちりと含まれるのだった。
—— とっても美味しいんだ、これはね、どう表現したら伝わるのかわかりませんけどね、ああ、これは本当に美味しいんです、本当です、ああ、本当なんです。
画家は女を褒めることしかしなかった。だが褒められて失うものはない。気を良くしたグラボは内緒話を始め、それを画家は律儀に聞き続けるのだった。これまで取り組んだ仕事のいくつかでグラボを描いていながら、まだ互いのあいだで聞き知れぬことがあり、それが一日を経るたび縮減するかわりに増大し、理解から離れて全く別人となってしまう。一体数年後はどうなってしまうのか? 数十年後は? 頻繁に交通したところで数十年後の今日、初対面の者同士のように挨拶を続けることになる。
クレアは黙ったヒーコのまえで会計を始めた。その傍ら、まるで消化を長引かせることが体重を増やさない手段とでも考えている仕草で少しずつ朝食を食みながら、出前のメニューを確認して、午睡のあとの楽しみに気を配っていた。窓はないが棚の小さなディスプレイには通りから入り口を映した風景が流れ、それが時々廊下や居間の画像と入れ替わる。相乗りして帰る女もいれば、長いこと外に出ない女もいた。街路樹を切られてから裸のままの館に素肌をくすぐる隙間風が吹き込み、一日中、底冷えの感じをもちながら、それでも、時折の熱気や騒ぎに体を温ませ季節が続く。女たちが昼間寝ているときに、地区では多様な人間が行き交っている。そうして興味をいだいた僅かばかりの男たちが上がり込んで、昼の情報を漏らすと、昼夜が微かな加減で入り混じり、ひとが経験することのできない無休の街というのが館から通りへと、通りから山のほうへと、縦横無尽に形成されて、互いに賢しらな気分に成り果せた。そうした軽い温もりというのは、しかし、男が支払いを済ませるたびに実質を伴ってくる。クレアは帳簿を上から下へと眺めた。まずここには金のない男は来なかった。すなわちここには金を持たない女はいなかった。それなら一体誰が、性を、経済を、営みを、糾弾できただろう? 誰しも理解しているように、われわれは自らの意志を保つ限りにおいて冷静でいられる。けれども、社会が、組織が、法則が、それを捻じ曲げにくるとき、一体どれほどの人間たちが吸い込まれ、捻じ曲げる側へと転換しただろうか? ヒーコが驚きの女であったのは、冬でも平然と肌を晒す態度に表れていたように、直感的で、内省的で、かつ歴史的視野を有していたにも関わらず、男たちが細かいことを言おうが、それを忘れられる点にあった。それは単に忘れるのではなく、今から考えても全く驚きなのだが、忘却を維持するためにありとあらゆる手段を尽くして、男たちを変えてしまう点にあった。だからこそ会うたびに(訪問するたびに)男たちは紳士的、騎士的でなくては務まらず、そうでなければ無礼な態度としてあしらわれた。ここの地区における問題は客のほうにはなかった。客はここを愛していた、それは強くロマン的に。
朝早くに注文していた洋服が届き、グラボはそれに着替えた。画家はカーテンを振って反射光を調整しながら如何にすれば彼女から昨夜のような微笑みを得られるのかと探りを入れていた。あまり細かく見すぎるわけにもいかず、一歩進んでは二歩横にずれる形で、その場には認められない過去の、もしくは未来の姿と重ね合わせ、少しだけだが人の偉大さ、言ってしまえば、女の偉大さを、フォルムで手に入れようとしていた。画家は立ったまま息を飲んだ。外ではウグイスが鳴いていた。光は瞬く間に彼女の顔を浸して、そして、別の女にした。
庭越しのビルがブランケットを翻し、戸口を明るく見せていた。営業後の出入りは止み、外から入ってくる人間もいなくなった。馴染みの客が残していったボトルにはグラス一杯分の白ワインが残り、誰にも飲まれずに、振動を伝える。奥部屋から現れたヒーコは外套を着て、タバコを買いに出た。グラボと画家は行き交う人々を窓から見ていた。ひとがどういうことをしようと行為に含んでしまう単調さや冗長さ、陳腐さは、対象を貶めはせず、代わりに精神の存在を保証するものだが、傍目にはそれが分からず、振り向き様にしばらくヒーコを眺め、その職業や若さを言い訳にした上で過ぎ去る労働者もいる。ヒーコは煙草屋の老人から話を聞いて、不安定な情勢や、今後のことを思った。
クレアは数ヶ月続いた家主の訪問が途切れ、手持ち無沙汰のまま明るくなった居間まで出てきた。別段繋がりがあるわけでもない同業者のなかには監視の目が緩い田舎の高速道路の脇に店を構えてやり過ごそうとするものもいるが、そうした者たちと比べて、今はどうだろう? 近くを電車が走り、デパートもあり、歩けばビジネス街にも行き当たる。女たちも安易に出入りし、閉鎖的な土地よりも自由に現れては消えてゆく。それにクレアは車を運転してくるような男が嫌だった。グラボに目配せをして画家の代金を計算させた。画家は追い出される男の悲しい仕草でひそひそとスーツの内側を触った。ここには決まった時間はなかったが余りに長居すると出て行かされた。
階段を降りる間際の画家とヒーコが行きあった。かつて彼女の際どいヌードを晒したことで借りのあった画家はもう特異的な視線を投げなかった。律儀にお辞儀をした彼にヒーコは尋ねた—— 今日はお暇かしら? それから画家のアトリエまで同行した。クレアはそれを居間の窓から見つめていた。そうして館から男はいなくなった。
思い出のなかから街が顔をだすように、すれ違う人々からは他所の土地の香りがして、温もりを持ち始めた風に情緒が滲んだ。知りようもない出来事が生じては止み、予兆ばかりが溢れては眼の前の光景、バス、切り株、ブーツ、バー、レストラン、経済、太陽、を忘れさせた。画家はいま誰でも愛することができた。ひとの底にある体験が彼を戸惑わせ、反発を生みながら、惹きつけていた。そうして、これは言ってはいけないことだが、誰もが誰をも愛していたことを知っていた。それを阻んでいるものを一瞬一瞬見出しながら、手をこまねき、ゆえにヒーコたちの偉大さを確認するのだった。
—— メンテというのは具体的には?
—— 脱毛、ネイル、エステ。
—— 素晴らしい。
半分だけ光を反射しているアトリエの入り口に近づくと輝きが窓全体に行き渡り、中の様子が見えなくなった。ポプラの厚い影で覆われたブロック塀の内側は苔むし、風が入り込むと低い音を鳴らして土の匂いを出す。ヒーコは画家が解錠に難儀しているあいだ庭のベンチに座って首をめぐらし焦色の塀を眺めた。横に住んでいるパコは飄々とした人で、塀の先で多くの薬草を植えており、それらの合法性の如何にかかわらず、お金を持っていけば幾つか千切って分けてくれる。画家はときおり絵を持っていき薬草と交換していたが、パコが絵を野ざらしにしているのをみて行き来を躊躇しだした。だけども有機栽培のそれを重宝し続け、遊びに来た女たちが代わりに尋ねる羽目となっている。
—— グラボが残していったんでしょう。
—— ああ、そうでしたねえ。
扉から冬の空気が注がれた室内は埃を明るさのなかに浮かし、繰り返し粒子をちらつかせた。机のうえでは古びて今にも端から中身が飛び出てきそうな蝶の標本が開かれ、それを女のドーム状の下着が抑えつけている。ヒーコを招き入れた画家はブラジャーを畳み標本を閉じたのち、はがき立てから数枚のスケッチを取り出して、彼女に渡した。無表情で紙を捲り、最後の線画に目を留めたあとのヒーコから画家は示し合わせたような目配せを受けた。
—— 懐かしい。このころはわたしたちも落ち着いてたんじゃない。
—— 最近は出てばっかりだそうで。
—— でも仕事だから仕方ないのよ。来てくれなくなったらこっちから行くしか。
画家とヒーコは何度も関係を重ねたカップルらしく互いの性にたいして軽い諦観をもちながら、絵を鑑賞した。それからお互いの今後のことを話した。画家が新生活という単語を使い、捉えようのない別の在り方を近似的に模索していた。二人は田舎に住むことができないと言って合意した。相手が誰だろうが結婚することはあり得ないとも。未出版の記録物が堆積した棚には貰い物の書籍が被さり、表面の数ページだけを都度参照しながら営む画業がまた幸か不幸かモールやブティックに相応しい手持ちのサイズの絵を生んで知れ渡ると、旧来の備忘録はより不可知な日陰に追いやられる。一旦禄を食む経済から出ても、不勉強になれば体が怠けて仕方がない。画家は一体何度性交したのか数え上げた。少年時代の墓での体験から学生時分の自治寮でのことまで何やら惜しい感覚を引き摺り、館でのことも未練ばかりになってくだくだしく、肝心のここ数週間のことが思い出せない。ヒーコの胸を見ても、その丸みはどこか遠い存在となっている。
—— あの絵はね、すでに買い戻してあるんです。こういうご時世だと、もう性的な絵を外に出すこともない。
放心して時計を見たところで時刻が目に入らない。目のピントが合わなくなっていた。ヒーコたちへの思いだけが真実味を持って朝の感覚に紛れるなか誰に訴えるでもなく虚脱した。もはや人は性愛以外の真実を持てないのだろうか?
—— でも描いてるじゃないの。
—— それは単純な習い性かもしれない。描くことしかしてきませんでしたから。
—— 売れなくなったら、何するつもり?
—— それは僕も知りたいところです。色々簡単なことはあるかもしれませんが、おそらく軌道に乗るまでが大変でしょうね。もしかしたら普通に働くかもしれませんね、工夫としても別にやっていけてた訳だから。許してくれますか?
—— 許すも何も。
ヒーコが優しさから体を預けた。画家の手は彼女の胸を押しつぶそうとしながら、脇腹あたりに散逸し続けた。
—— 僕はもう正義の側にありませんね。ずっと、生まれてからずっと、試みてはきましたが、どうやら僕はそっちの側じゃないらしい。
—— ずるい人、そういう言い方が正当化になってるじゃないの。
—— そういうところも含めてなんです、もう勘違いはしていられません。
二人は裏庭の先で流れる人気のない小川に沿って歩くと凍ってまた柔らかくなった草を摘み、地面を均した。川は山を迂回して遠くから流れてきており、都会には珍しい透明さを保って地下へと伸びていた。街は大きく変わろうとして道を犇めかせ、住宅を窮屈な方へと追いやるが、まだ所々に今のものとも過去のものとも言い難い自然が顔を出し、場所を忘れさせる。画家は数瞬女のことを忘れていた。けれども胸は触り続けていた。土地の境界が曖昧であるがゆえに侵入の感じもなくパコの敷地へと入っていくと、そこではパコがウェルズと寝転がっていた。二人は二人を招いた。そうして十分なほどの時間を木製のソファーに腰掛けて過ごし、四人は眠りについた。
乾く外気をへて公道から大型車の唸りが離れた庭を震わした。目覚めきれない人々が褥のなかの脆弱さを持ち運び、表からわずかな声をあげていた。誰しもが抱えるどうしようもない急所が不用意にさらされ、歪みを生んだ。娼婦がそうした部分を欠いた人間であったとは思わない。そうではなく、彼女たちこそ起きしなの不安定さと最も自覚的に向き合う人々なのだった。だからこそ日の移り変わりには慎重であった。一体どれほどの人間が夜に目覚めて昼の人間と交流しただろうか? 全く異なる時間の運びにどれほど躊躇しなくてはならなかっただろうか? けれども一つ言えることは、他人が目覚めているときに、自分が寝ているという至極単純なことが、動物にとって危険極まりないことでありながら、人間にとっては幸福を生むことすらあるということである。言い換えれば、一人の人間とは一個の惑星のようなものであり、他者とはたった一度しか同じ角度で対面し得ない。そこに不幸を求めるか、運命を認めるかは、その人間次第である。
酔いが睡魔に混じり現実の理解を何度も妨げながら、寒さや、日差しが、思考に忍び込んで驚きがふと大きくなり、ヒーコの視線は川岸に投げ出された。太った男が歩いていた。ヒーコは彼に挨拶がてら話しかけようとするが、口が開かない。彼はよく見た顧客のようだったが、一度も相手にしたことはなく、重ね着して隠した体の厚みはわからない。苦手な表情—— とヒーコは思った。それが幾つもの経験を引っ張り出して彼女を苛んだ。だが男は消えた。画家もパコもウェルズも庭から退いて、内側で暖を取っているのが見えた。
対岸には作業着らしき洗濯物を吊り下げる掃除婦の女がいて、一面が灰色に変わっていた。列にして五、行にして十はある服のサイズは大中小あり、それぞれ無作為に並んでいた。女は奥から生地を伸ばしていき、ようやく手前の丸みに手を加えた。それから煙草を吸った。女が吐く息は白かったが、寒気も混じっているようだった。吸い止しを土手に投げ漠然と対岸を覗いた彼女はヒーコと同じぐらいの年格好で色気があった。股の感じからして随分と性行為はしていないらしい。
もともとカムモデルをしていたヒーコはそれぐらいの女が何百というお金を稼ぐのをみてきた。人間というのはエネルギーの塊であって、それを外に出すことができなければ自らを滅却してしまう。惜しい気がしながら、作業着干しの慎ましい喜びもあった。掃除婦は可能性を振りまきながら、昼のひと時を過ごす。クレアが外部に清掃を委ねなかったため、ヒーコも時おり掃除はしていた。けれども、女の手際はよかった。少しばかり憧れを抱かずにはいられないほどだった。それほど上手に服を広げられる人間が、一体何を不得手とするのだろう? あらゆることが演繹を許すのであれば、世の中の物事はおそらく別種の動作によって示すことができた。すなわち服を干すという作業、いや、服を広げるという行為だけで、いくつもの仕事が表現可能であった。ならば何故労働において賃金の差というものが生じるのであろう? ヒーコは気づいたときには板を渡って対岸へとたどり着いていた。そして自らが寝起きで頭が冴えないことを詫びながら、女の事情を聞いた。
女はマータといい、売春の経験はなかった。けれども丸みを帯びた腰に似合い、とても乾いた声をしていた。体を観察していたヒーコには年齢が分かった。川は嵩を一段まして周りの芝生を反映し始め、低い機械音が洗濯物の奥から届いていた。女には女の生活があり、ヒーコとはただ場所を共有しているに過ぎなくとも、好感は持った。彼女たちは昼食を共にする約束をした。そしてそれは上手くいった。
—— 顔は出さなくていいのね。本当に体だけ?
—— そうよ。今出しちゃうとまずいでしょう。
—— それならあなたのほうが適材じゃない。そういうの慣れてそうだし。
—— 素人のほうがいいのよ。わたしは出過ぎてしまったから。
ヒーコはテーブルをひと拭きしてパンの粉を落とした。昨日からの疲労が蓄積して視界はぼやけた。画家が帰ってきた。マータの方を向かず、自宅の床を見つめながらヒーコに近づいた。彼は娼婦以外の女との会話を憚り、代替して余りあるほど館で大いに口を開く。だが口にしたことは一晩で消えていき、後には何も残らない。画家は塩漬けたオリーブをヒーコの皿から取り、齧って、裏部屋にこもった。
—— あの人、ずいぶんといい生活してるのね。対岸から見ていて飽きないほど。
—— 本人はやめたいみたいよ。マネージャーにどう?
—— マネージャーなんて。一時間前は考えてもみなかった。
—— もちろん冗談。どこにも男は必要ないから。
ガラス瓶の蓋が外の木々を止めどなく映じていた。その下で机の天板はすり減り箆型の跡をとどめた。明日の用事のことを話したが、マータは来られないと言った。ヒーコは訳を聞かなかった。一時になり工場へ戻る彼女を見送りにいくと、裏の窓から音楽が流れ出た。南方は視界が遮られ、下流ばかりに空気が膨らんだ。画家は寝台に腰掛け、うつむいていた。
—— もうすぐ出ないといけないのよ、あの人。
—— どこに?
—— 何週間か、都心に滞在するの。その間鍵は預かってるから、まずはここからどう? わたしも本業の方が暇になっちゃったし直ぐに始められる。
ヒーコはボディペインティング用の絵の具の在庫を確かめると言ったが、マータにはそれが冗談なのか分からなかった。彼女は生真面目だがマータの反応をみて考えを改めた。それから二人して水に濡れた板橋を渡り、工場の敷地内へと入る。なかでは大中小それぞれの作業着を着た工員たちが仕事に着手しようと足場を整え、姿勢を正していた。ヒーコは奥に設置された機械の影に姿を消すマータを見送って、それから画家の出立を手伝った。
何かしら悪いことが起きないといいんですが—— と画家は言った。何も起きないから、大丈夫、とヒーコは答えた。画家は定位置を確認するように端から棚を眺めていった。彼は春画の類を有していなかったが、自ら書き溜めていた。ほかにあるものと言えば、よく分からなくなった紙片とそれを押さえつけている文鎮代わりの本であった。冬の空気は澄んで、静かに川の音を伝えた。斜面に生えた植物は片側を流れに近づけて湿っていた。通りへと出れば打ち消される感覚が、出来事もなしに、家まで持ち運ばれた。画家は腕を僅かに持ち上げてヒーコの尻を触ったが、そこに会話はなかった。
—— とっても心配になってきました。一体どうすればあなた無しでやっていけましょうか? 突然見知らぬ他人の尻を触ったりしてしまわないでしょうか? 僕にオフェンシブな感じはなくとも、相手にはそうとも限らないわけでしょう? もっとも、僕はプリミティブにオフェンシブなんて考え方は存在しなかったと思います、勿論プリミティブだから思想すら存在しなかったわけだけども。
—— そういうときは謝ればいいのよ。
—— 世の中がそんなに簡単でしたらね。問題というのはみんな時間がなくてとってもカオスになってることなんです。一個一個はとっても単純であるはずなのに。
ガレージから室内に風が入った。車は軋み、白く有毒な煙を芝生へ巡らした。通りまでいき交差点の角で煙草を購入した画家はそこから一本だけ抜き取り、あとをヒーコに渡した。ヒーコのことはグラボから聞いていた。けれどもそれに関して何を言うでもなかった。
—— 僕が唯一尊敬している男性はですね、詩人の方なんです。けれども詩人は自称でしてね、あの人は詩を書かない。詩を書かない詩人っていえば聞こえはいいでしょうが、ある意味ではダンサーに近い。普通に生活していたと思ったら、いつの間にか全てを捨てている人なんです、物理的なものすべてを。だから簡単には接触できない。そういった人、僕は十代の終わりに会ったきりなんですが、そういった人間に会ってしまったら、いかに地に足を着けずに生きるか考えざるを得なくなる。直感ですが多分この辺りであの人はまだ生きてると思います。ひとは旅行なんてする必要ないんです。なんでこれほど荷物を抱えているんだろうか。
—— それが出来るのは男だけよ。どれだけ無垢だろうと家がなくなったら。
—— その人は家や金もないわけではありません。ある日突然捨てて、また一から作り直すわけですから。会社だって経営していたはずなんです。
—— どんな会社?
—— それがパソコン関係ですよ。彼曰く、データがすべて無くなったところで、簡単に再構築できるものらしい。そして比較的意味のあるものが繰り返し残るようになると。
空港は険しくなる山の手前に姿を表し、何台かの飛行機を飛び立たせた。小さな丘をところどころに見せた風景もそれ以上は勾配を変え、森を敷き詰めた。麓からは草原が浮き出て、日が照った。駐車場が滑走路と並んで伸び最後の平野を満喫するなか、枝葉は絡み合い、木々が空の色を入れ込んで、ゲートへ向かう若い女の列に隧道をつくった。画家は頭上から注がれる光が全く無防備に晒された女の肌を赤くするのを心待ちにした。それはどこでもそうだった。特に女が肌を晒すとき、その公共性には気を配った。当然のことではあるが、若い人間がいるということは社会そのものが若いということである。人が美しさを燃やして老い、街を徘徊することになろうと、代わりに出てくる人間が美しくあれば、社会は美しく、老人も美しさを得ることになる。すなわち灰塵に帰した美が世をさまよう砂埃のなかから現在ある美に呼応して煌めき、とめどないエコーを生む。それなら一体誰が美を持たぬのであろう? わたしがこれから書こうとする悲劇、人の狂気が生んだ惨状に対して、倫理的な抵抗を勝ち得たとするならば、それはこのとき山に掛かっていた薄雲であったり、娼婦たちの股の開きに多くの示唆を受けたことに依る。そこには安堵と温かみがみられたものの、それは外が冷たい空気で覆われていたためだった。
画家は都心で何をするでもなかった。滞在地ではより厳しい風が吹いて、寂しい思いをするのはわかっていた。ほんの少しの挨拶を終えれば、昔住んだ地区や、通った商店に行き、微妙な変化と忘却を実感するのだった。同じことは都心から帰ってきたところで生じる。けれどもヒーコには必ず迎えにくるよう伝えた。それがたった一つの慰めだった。
—— 僕のように長居するタイプってのはね、やめ方が分かっていないんです。手を振り出したら最後、ずっと振り続けてしまうんです。
—— ならここでお別れね。出口はわかるでしょう? 手前のところで待ってる。
—— やっぱり来ることはできませんか。ちょっとだけでいいんです、一日、二日、その程度で構いません。
—— 急は無理よ。迎えに来れなくなったら連絡するから。
—— 気づいたんですが、僕はひとりになった経験がほとんどないんです。ずっと誰かのそばで絵を描いたり、シャワーを浴びたりしてきたわけですが、それを止めてしまったら一体どうなってしまうんでしょうか?
時間が迫りゲート前で降ろされた画家がまだなにか伝えたそうに近づいてきても、ヒーコは窓を開けずに手を振った。人前に出た彼は別人のように背筋を伸ばし、髪の毛を整え出した。しばらく車の周りで躊躇していたものの、係の人間の誘導には従った。ヒーコは残った煙草を噛んだ。一旦横になっていたが、誘導係が戻ってきて、男が去ったことを示す仕草で帰宅を促した。その空気は枯れ葉の匂いを含んで落ち着いていた。知っている画家のそれは車内には残っていても、窓から徐々に押し流された。日は長く続きそうに映え、それでも底冷えの感じは拭えなかった。ヒーコはそうやって知り合った男の車を運転するとき遠出することもなく街を回った。まずは白い邸宅に入り、滞納分のお金を受け取った。次に服を仕立てにお店へ入った。そのままエステを済ませると、デパートでいささか値の張る食料品を買い、地区へと戻ってきた。電車通りと交差してある煉瓦の通りは夕方を前にして早々に陰り、暖色のライトを漏らしていた。女の胸を触りながら行く男は何処にでもいて、他人事のように性は溢れた。物を置いたヒーコはターシャから相談を受けて口ごもった。
—— わたしが取り立てるったって無理よ。顔は割れてるし。
—— 何も脅すわけじゃないから。少しだけ話をして、事情を話してくれれば。
移ってきた女がそうやってヒーコの立場を利用して金銭を得ようとするのは珍しくない。けれどもヒーコ自身娼婦への信頼があった。一体他のどんな職業が偽善や建前を必要としないというのだろう? 裏窓へと目を向けて暗がりを背にした。街路灯は次々と点され、歩く女たちの姿は儚くなった。ここはひとつの逃げ場所だった、時が過ぎるまで、姿勢を整えるまで、脆い部分が殻に覆われるまで、朝のまばゆさの中へと出て行けるまで、ひとびとは逗留した。ヒーコは承諾した。そしてターシャが表に出てゆくのを眺めた。
ヒーコはもう館で働けなかった。裏方か雑用係にでもなろうとしていた。だけどもクレアは鰾膠も無く断った—— それじゃ役不足じゃない、ねえ? 一度道を進めば引き返すのに苦労し、留まることを目的にしてしまえば窒息してしまう。集まりだした女たちの脇で回収されたコートは様々な匂いを発して華やぎ、重なり合った。そこには一日の歩みや語りや嗜みが凝縮され、詳細を窺い知ることのできない時間の経過というものが幾つもの可能性をもって示される。どれも片手間に取り組めるほど機械的ではなく、愚直さ、すなわち人間の存在が求められていた。それでは後に何が残ったのだろうか? 何も残らなかった。何も。いかなる献身も、いかなる感情も過ぎ去り、大事なものは何も残らなかった。どうすればよかったのだろうか? 一体何ができたというのだろうか? 街では風が吹き荒び、誰しもまごつかされた。別の日には陽光が激しく肌に降り注いでいた。そうした連続だけが繰り返されて、わたしたちは流された。
大通りを登って丘のうえへと来ると黄色い暮れ方の瞬きは邸へと収まった。ヒーコは守衛に名前を告げ、画家の車を硬い砂地に載せた。彼女は誰にも迎え入れられることなく日が没する彼方の地平線を高台から垣間見た。端に寄ると道のない遠くの斜面に小さい家々が立ち並び、中でわずかに動きのあるのが分かる。邸は周りを灌木で覆い、階下の光を遮っているが、三階からは音が直接街へと伝わっていた。ヒーコは即座に好感をもった。冬には寒いところだが、秋や春にはまともだろうと感じた。裏口の扉に触れたとき、ヒーコの手は湿り気を帯びた。指先をみると朱色の口紅らしきものが付着していて、ハンカチを半分使う必要があった。彼女の耳には給仕の歓談する声が届き、来客のもてなしを受けるのではなく自分はある種の女の扱いを被るのだと理解した。けれども違った。端正な男がヒーコの姿に気づき、フランス窓をいくつか横切ると、彼女は二階へ運ばれた。
大理石の階段を登る。外では僅かばかり輪郭の残った山の風景が角度に従い雲の中へと折り込まれ縁飾りをつけると、中央から直線的な通りが浮かび上がる。ひとの姿は確認できないが、車は各々独立して動いているのが一瞥しただけでもわかる。そこからヒーコは運転して来た。邸は冬の空気の軽さを保ちながら隅々まで暖房を効かせて女を自然と薄着にさせる。金色の蛍光器具は丁寧なまでに長さが調整され視界には入らない。招待制なのよね、とヒーコは尋ねた。そうです、とボーイは答えた、けれども新しいお客様というのは中々お見えになりません、内政事情もありますから。柔らかい黒のカーテンは山の上に立つ病院がみせるような幅広さのなかでも独立した丸みを持って掛かり、裾がカーペットに触れている。広間から部屋へと到れば床は緑から赤へと張り替わる。周りを本棚に囲まれた小さい食堂とでも言えそうな空間にヒーコは取り残された。上階の音楽は遮られ、街で聞いたクラクションの残響が蘇った。実業家に対して言うことは決まっていた、ターシャの賃金を今ここで頂きたいのですが、支払いを拒むようであれば相応の手段を取らせていただきます。
歓談のざわつきが宴の始まりを知らせた。太い声が聞きしれぬ言葉を使い人々の配置を定めた。そこから実業家が手に沢山の書類と皿を持って現れた。足音は静かで顔付は厳粛でも、ヒーコには彼の高揚が伝わった。あとからボーイがついてきたものの布巾を纏った手には一つの魔法瓶が握られていただけで、視線を下げたまま実業家の茶碗に熱湯を注ぎ込むと、すぐに立ち去った。それにしても若かった。ヒーコは金のない勤勉な学生が間違って邸へと入り込んだのかと考えた。モノクロのボーイとは対照的に、体は多彩な生地で覆われ、ところどころ染みや皺が見られる。おそらくどの給仕よりも若年で、老いた門衛とは姿かたちから祖父と孫の関係が疑われた。そうした年齢の人間には性に対して極端な距離を取るものと、近づきすぎるものがいる。ヒーコの方に目をやらない様子をみると前者であることが期待されたが、彼は皿と書類とに夢中になっていた。
ターシャは同じように感じただろう。これまで積み上げてきたスタイルを介さずに、直接生活を見られてしまった思い。隠すべき部分をすんなり知られてしまった恥ずかしさ。日々目にするものを自ら明かすときには化粧を施したように別物となっても、他人の口から即物的な言葉となって列挙されるときには受けてしまう自らの単純さの告白。娼婦が愛人になろうと孤独になろうとついてくる過去の行為の形象が、どういった街の風景にも、夜の時間にも、季節にも当てはまり、反復を余儀なくされる。実業家の無言がしばらくヒーコを苦しめた。そして彼は「バストのサイズは?」と尋ねた。
—— わたし、ここで働きにきたわけではないんですが。
—— 分かってます、お姉さん。しかし事務手続きというのは何処でも必要になるわけです。別に嘘をついたって構いません、あとからどうせ伝え聞くことですから。
—— 知人のお金を貰いに来たんです。
—— 事情もあとから聞きます。
彼女は苛立った。ときに娼婦はこういった若い男に使われるのだった。ヒーコはそれゆえクレアを尊敬していた。地主の娘であるクレアは、女たちのためにも、自分のためにも、男を雇わなかった。そして僅かに残された土地を頼りに商売をはじめたのだった。最初は小規模で順調だった。それから間取りも変わり、情勢も変わった。けれども彼女自身に変わりはなかった。ヒーコとはじめて会ったとき、クレアはどう接しただろう? 落ちぶれたポルノスター? いや、クレアは全く世間の性に通じていなかった。知っていたのは電気代や食料品店の営業日といった身近なことばかりだった。ヒーコが敢えて過去を晒す必要はなかった。噂は自然と街に流れていた。
彼は茶碗に口をつけて舌を潤した。それから窓辺に寄り、カーテンを開いた。
—— あちらはあなたのお車ですね。ならお酒を飲むことはできないな。代行運転でもさせましょうか?
—— いいの、飲む気なんか全くないんだから。
—— せっかく来ていただいたし邸のメニューを堪能していって欲しいなあ。うちの事を十分お伝えしてから、判断してもらいたいんです。
—— 結構です。それより、ターシャのお金を頂けませんか。
厚板のうえに更紗を敷いた棚は表紙を整理して一種の壁紙として映った。実業家はどれを取るでもなく、ただ顔を向けて、額を伸ばしていた。実際彼は本を読む時間を持てなかった。事業の計画が進み、思索するのが億劫なほど精神が一つの方向に向いていた。暇があっても要約しか読む気になれない。ヒーコは男から目を離した。彼は慎重な足取りで扉に近づき、入り口から部屋の方へと注意を傾けた。服や手の擦れる音が二人の耳に入った。彼はそれゆえに深く女を観察した。凝り固まった部分をほぐすためのはじめの緊張が過ぎると、あとは反復の快楽が襲った。
—— 問題を解決したら、検討してもらえますか?
—— 遠回りはよして。第一もうわたしは辞めたの。たやすく続けたりはできない。
—— 危険だ、まったく危険だ。そうわたしも思ったんです。あなたの顔を見ていると益々不安になってくる。どこかでお会いしました?
—— まさか。見立て違いかもしれないけれど、ずいぶんとお若い方のようですし。
—— いえ、若くはないんです。ここ数年働きすぎてどんどん老けています。
同業者への自己嫌忌に似た配慮が距離をつくり、彼を朴訥にした。しかし遠くあるものは麗しい。昼のうちに溜まった冷気が暖房にあたり部屋の雰囲気を濃くした。ヒーコの首筋は芳しく震え、男がそれに触れたようだった。再び外に近づき、ステンドグラスにはめ込まれた小窓を開けた。ヒーコの車は赤いポルシェだった。それが庭の暖色照明のもとガラスの屈折なしにみえ、つめたく引き締られた目の焦点はそのまま所有者の女のうえに移された。ヒーコは美しかった。誰にでも感じさせる親密さが彼女の魅力を生んでいた。笑顔を向けられた男たちは一瞬のうちに虜となり、顧客となった。彼女と取り巻く男たちのあいだでは美しさは力のようだった。けれどもそれが脆さだったとしたら? なぜ人は醜さではなく美を求めたのか? 人生の様々な時期で遭遇した美しい人々を思うに、幸福だったといえるのは彼らではなく周囲で犇めいた人間たちだった。ならなぜわざわざ身を挺して性の対象となったのか? それは愛が危険を求め、危険が愛を求めたからである。ひとは失うものしか愛することはできない。愛するためには愛されなくてはいけない。愛してしまえば失ってしまう。実業家はヒーコのことを思い出した。彼女の置かれている境遇のことも、ビジネスの危うさも。だがそこには敢えて感情を与えず、事務的に処理しようと試みた。彼自身が傷つくことを恐れた。それでも額を支払いすぎた。彼はヒーコからサービスを受けた。
実業家が小窓から見守るなかヒーコはエンジンを掛けた。甲高い鴉の鳴き声のした、従業員は次の日も自分たちが通るであろう街への道を空けて、彼女を送り出した。夜半には女たちが騒動する横で冷蔵庫の整理をして軽い賄いを作り、彼女は口々から感想を聞いた。女たちは食べることが好きだった。男たちは見ることを好んだ。ヒーコは裏方として煙草を吸いながら一夜を過ごした。どういう日にもこうした光景は見受けられた。風変わりな仕方で迷い込んだ人々を朝には起立させて帰した。不思議とそこに眠気はなかった。昼だけが彼女を眠らせた。
—— これだけ美味しいと、食べるものに困りませんね。
—— 本人はちっとも食べないのよ、なんだか毒味してるみたい。
ヒーコのことをよく知るために顔を覗き込んだ男たちはそこに生娘をみた。何人かは実際に関係を持っていたものの、それとこれとは別だった。性行為自体に大した意味や興味はなかった。ただもっと大きな何か——大芸術と呼ぶのがわたしは相応しいとおもうが——を求め、部屋に舞った水蒸気や朝の戸外を見つめていた。第一、それを欠いてしまった場合に、マナーやモラルというものは盲目的な追従以外何の役割を果たすというのだろうか。だからこそわたしは彼らを紳士と呼んだ。彼らは国を憂いたり、社会を憂いたりなどしなかった。全く女と喋ることにしか関心のない男であろうと、その態度には崇高なものに接近しようとする人物の孤独と博愛が顔をみせていた。誰と館にいようと男たちはひとりだった。わたしが国と呼ぶものは、永劫に独立したものである。独立した実体が偶然に直結し、僅かなあいだ同じ道を歩むこと、それが今世紀の革命となる。
地続きの町まで冬の大気は細かく照らされ、少しの移動にも夜景の全体が付きまとい、風は家の暖炉を、戸口の賑わいは山の麓を思わせた。夏の隙間ある感覚とはことなり、この季節にはひとつひとつのものが距離を保ちながらも呼応しあって、地域から地域が縮こまる。通りをいく体温頼りの女たちは薄着のままでいる。
ヒーコは棚の上においた旅行鞄を頑丈な肘掛け椅子に登って取り、なかへ服を詰めた。収納ポケットは小型のボトルが湿り気もなく液体石鹸の匂いをばら撒いていた。いつの時代のものか分からなくなった鍵が取り出され、また服の下敷きとなった。窓が浅く開かれた廊下は十分に光を反射しない茶色の床板を敷き詰め、館主の足音を届けた。
—— 三番街まで走らせるから。
夕日の当たった雲が退いてゆく。内から出たものも外から出たものも、全てが消えて暗くなる。クレアは後部座席まで鞄の一つを運んで、しぼみきった車内の空気に、埃っぽい循環を起こした。それから外には見えない高さでヒーコに厚い封筒を渡した。裏道から待ち合わせ場所までおおらかなカーブを描きながら遠回りをしたあいだ、一言もクレアは発しなかった。
—— 今までみたいな生活はもうできないかもしれないけれど、いいのよ。わたしたち、すごく頑張ったわ。そう思わない?
ヒーコはゴミを捨てに行くクレアの早朝の姿を思い浮かべた。
—— 掃除、料理、洗濯、ってなんだか縁遠いようで、やっぱり必要ね。たくさん時間使っちゃった。わたしたちの歳になったら褒められて安心するところはあっても、それ以上のことはないでしょ。もう考えるんじゃなくて、自然に時間を使いたいのよ。そうじゃないと疲れてしまう。ときどきわたしも顔を出しておきたい。でもまた迷惑かけちゃうと。これだけ貰ったらね。
隧道を抜けながら古びた旧市街を隙間から眺めた。別方向へとむかう車には一日の最後の微光が絡み、それが人工光であるのかは分からない。クレアは子供のような笑みを浮かべた。だがすぐに暗闇がそれを掻き消した。
—— 覚えてる、ここ? よく二人で行ってたものね。まさか取り壊されるなんて。
—— いい建物は残らないのよ、なぜだかどうでもいいのばっかり残っちゃう。
—— 小さいとテナント料が取れないんでしょう。でもあの内装がなくなるのは勿体無い。いつかわたしたち、ああいうお店でもどうかしら。
—— まったく普通の接客業は性に合わないわ。自分を捨てるほど潔くはなれない。その分、館は外国ね、なんだか言葉が違うもの。三十年前はこうだった?
乾いたアスファルトは下で細かくタイヤを撥ねた。電気屋の袋が路上の風に吹かれていた。大通りから縁石なしに続いているホテルのロータリーまでヒーコたちはレコードの針を置くようにゆっくり進んだ。
—— ブレーキの踏み間違えってわたしたちの年でもやっちゃいそうになるじゃない。こんな豪華なところ、間違いでいいから一回壊してみたいと思うのよ。というかあっという間にその年になりそう。子ども産んだ女たちが老後の話なんかしているのを盗み聞きしちゃうととっても恐ろしいわ。老人ホームは不可避ね。わたしたち本当に年取るのかしら? やだわ、年寄りは男だけにしてほしいわよ。おじさんばっかり相手にしてるから時々分からなくなるのよ、実年齢が。
—— クレアは素敵なおばあさんになるわ。
—— あら、そう?
—— わたしも晩年のスタイルは考えてる、薄いサングラスをはめてデパートに買い物にいく姿。のりを効かせたワンピースと後ろで小さく纏めた白髪、それに軽いネックレス。そうしたものを考慮に入れながら、徐々に方向を変えていきたい。もう若さには興味ないし。
入り口の混雑には確かに金を吸い込まれる気配があった。けれども吸い込む側でもあった彼女たちは公の場で人に近づくときほど慎重になる。数々の失敗が意識を介さず所作に反映され、ただその人間のある限りにおいて生き延びている。間接照明の横溢のなかに入る。車はあらゆる姿形をみせながら、各々の観衆によって選び出された瞬間でのみ解釈され、好き勝手に判断される。運転席側の窓が開けられた。口紅の色が輝いた。女たちはもう娼婦だった。女たちがやさしく語らっている。彼女たちは森のニンフだった。彼女たちのそばには紺色の泉が現れた。ボーイが皿を運んでくるとヒーコは紙包みのパイをひとつ受け取った。そうしてそれを頬張った。
クレアはポーチから財布を取り出すとチケットのようなものをボーイに手渡した。皿とともに一旦引き返した彼は両手に立方体の箱を持って現れた。彼女たちは一歩も車から降りてはいなかったが遠くまで来ていた。
—— あの人に渡してちょうだい、うちと同じの欲しがってたから。
それはヒマラヤ産の水晶玉だった。画家は頻繁に山の霊性と女を重ね合わせて有りもしない風景画を描いていた。だがそれは一部で真実であり、写真とは別の真実だった。だから彼女たちはヒマラヤの女だった。日が暮れて風が暗闇の中で渦を巻き、辺りには見たことのない土地が広がっていた。冷たいのか暖かいのか分からなかった、ただ、水晶玉は純粋な温度を有していた。触れるたびに体の奥底から遠い感覚が引き出され、思考と混じり合い、数瞬先の未来が読めた。数瞬であるがゆえに読んだというよりも水晶玉によって書かれたと言ったほうが些か正確である。だが読み書きは両者の均衡によってのみ成立する。占い師はその言によって将来を確定させる。クレアは催眠の類いにも通じていた。男たちは彼女の四肢に夢中になっていた。ボーイは明らかにクレアに恋い焦がれていた。女たちでもそうだった、世界中が彼女を愛していた。だが愛し続けるためには遠くへと離れて独りにならなくてはならない。ゆえに愛され続ける女はつねに孤独である。ボーイは辞去して、ヒーコも運転席に座っていた。クレアはホテルの一室へと向かおうとしていた。みな散り散りになろうとしていた。山襞は街の輝きを伸ばして、アンフィテアトルムの体を成した。この世の舞台のうえでは女たちは物悲しく偉大で、収まりがつかない。
—— 不幸な場所に住むひとは他人を信頼できないために、小さい限られたコミュニティのなかで生き延びようとします。結果としてひとりになることを恐れだすように思うんです。だから集団にたいしては寛容になって、個人に対しては自己批判の裏返しで、静かにしていようと怒りを覚えてしまう。ヒーコさんが独りでいることを思うと僕は嬉しいんです。
—— なんだか可笑しいわ。褒められてばかりで。
—— だから、あえてこの表現を使うんですが、締りのない女たち全体に癇癪を起こす人間のことも理解できます。どういうわけか、場所とか街とか、よく分からない大きなものに左右されていながら、それを根本の問題だと認識することができないでいる。
白い蒸気のなかで人だかりが生じて立ち働く給仕の姿は陰を落とした。住宅地の重なりに吸い込まれて陽光は淡くなり、三日雨が降ったあとの湿り気がところどころで人々の手を滞らせる。建築は緩慢につづき、解体も遅延のすえ進んだ。一日のうちに微々として変化する風景が静止画然として窓際に届く。ヒーコはカメラを設置しながら慌ただしく過ぎた月日を静かに振り返った。裸になりやすい部屋で、鳩が周囲を飛んでいたが、二階に虫は来なくなっていた。焚かれた香料は外気と混ぜ合わさり、むき出しのレンズには煙が絡んだ。
—— 流れているんですか、これ?
遅くになって訪れたパコが質問した。パコはワインとクロワッサンを詰めた小さい袋を持って、地上から二階までの道のりを恭しく進んできた。女たちよりも長く住んでいる男たちのほうが緊張するのだった。それゆえ培われてきた慣習や矜持は美しい女のまえでは意味をなさない。了解しなくてはならないのは、徹底した美が周囲に羨望を引き起こしたとしても、他者からはごく限られたものしか得ないということである。つまり美は世界の方向にではなくその外に向いた存在である。われわれが美のほうを見るとき、美は一体何をみているのだろうか? 美しい建築は一体誰のために建てられるのであろうか、住人はそれを外から眺められないというのに? 究極的に美は不可視である。それは無に等しい。ひとはうまく消え去ることばかり考える。だが、わたしが強調しなくてはならないのは、それは美の勝手な趨勢、個人的な問題に過ぎないということであって、美と関係を有しないものたちは生においてしか真の対象と出会うことがない。ふと対象から受ける喜ばしさの裏には、砂漠が広がっている。それは美しい人々の孤独である。
ゆっくりとした沈黙が薄暗い部屋を覆った。カメラの死角に小型の木机と椅子を置いたパコはヒーコの仕事始めを見守った。ヒーコは二時間ばかり椅子の上で足を組み替えるだけの時を過ごした。
—— それでは、上手くいったんですか?
—— まあ挨拶程度ね、戻ってくるまでには辛抱が必要なのよ。
かつては自身のデートサイトを持っていたほどのヒーコも世界中の女のなかに埋もれていた。潮流があり、対面よりも簡単に忘れ去られる。女たちは簡単に脱いではいけなかった。ほとんどの男は一度見ただけで満足するのだった。けれども大事なのは、やはり男の女心を掴むことだった。だからヒーコも女を相手にしていたと言っていい。ある偶然の機会を捉えて、放っておいてはいけない相手だと認識させる必要があった。パコも画家も理解していた、これが簡単な商売ではないということを。画家が残した銅版画『世界と向き合う女』はこの場面を克明に記録している。女たちが熟した思索の数々である。
朝日の導きもなく川には音だけが集り、辺りを季節の残した腐葉土が覆った。思い出せなくなった出来事が薄暗がりのなか永遠に留まっている。コンピュータのロゴから電話のマークまで汎ゆるシンボルに認められる侵略的なものから遠ざかろうと、裏庭に出ていた。疲れてしまうとヒーコは外出した、それが自然だというように。明け方に聞こえる女の際立った声は煉瓦通りの名残として鼻腔を膨らます。
—— そちらはフチイさんかしら。
—— ええ、こちらはフチイです。
対岸まで歩を進めると無人の工場を窓から見つめ、ヒーコはマータの勤務する姿を想像していた。女たちが何かを生産するということと、ポルノをやることにどうした違いがあるというのだろう? ヒーコは男に脱がされたことがなかった。彼女としてはポルノをやらせることでマータに服を着せるつもりでいた。地区の外の女たちは輝かしくも、労働のなかで弄ばされ、意見を失っているようだった。薄着の女たちは肌寒さが故に独立心をもっていた。一方で厚着の女たちは囲われていた。ある種の女たちにとっては脱ぐことが最大の防御になるのだった。ヒーコはその素質をマータのなかに見抜いた。ウェルズに彼女の写真をみせた。彼はパコの家で寝続けていた。
—— もう全く写真というのは信用していません。それは加工を恐れているだとか利己的な動機から来るものではなくてね、判断をしないようにしたんです。
—— 好きだということね。
—— そうなんです、もう、僕に嫌いなものはありません。つまり愛も、のっぺらになってきている。どうしたらあなたをピーシーで見て満足できるというのですか?
ヒーコは蓋のないガラス瓶から注いだ水をウェルズに飲ませた。
—— そういうご時世だから仕方ないのよ。
—— 何でもかんでも社会的な現象に過ぎないような気がしてきました。本当の悪人っているんですか? 本当の女というのも?
ブティックの並ぶ通りは喫茶店の匂いをかき混ぜながら朝まだきの新鮮な空気を取り入れていた。別の場所をそれぞれが連想させながら全体では趣きが統一されてある看板には淡い光が差し込んでいた。ヒーコは眉毛を覆うほどのサングラスをはめて道行く女たちを眺めており、男たちは目に入らなかった。良い男の横にいる女のことを具に確かめた。昨日まで街にとどまっていた湿り気は晴れ間のなか温もった空気に変わって流れた。ある男は昨夜の失敗を表情に出さないまま車通りから麓までの開けて延びた景観に割り込み彼女を注意深く見つめていく。視界の中心に女がいて、近づいてくる。それは夜勤明けのグラボだった。
—— もう聞いた?
—— ええ。
グラボはヒーコと同じ珈琲を注文して匂いを立てた。
—— 簡単に建て替えてあげられる額じゃないわ。家賃十年分ぐらいかしら。こうも簡単に入れられてしまったら保釈金というよりも身代金ね。
グラボは静かに声を出して笑った。
—— もし、こういったことが長く続くなら、お客さんでいられなくなっちゃうわよ。わたしたちもサービスでやってるわけじゃないんだし、お金ってのは動いてるひとからしか取れないものでしょう。ていうかヒーコは下半身も鋭く描かれてたんじゃない。モデルって大丈夫なのかしら?
—— 幸運なことに顔は抽象的だったわ、全く。
注がれたお茶のなかでミルクはかき混ぜられて、カップの上に色が生じては薄れていく。徐々に明らかになる街の輪郭からは飛行機が放たれ、雲は遠ざかり、日はまっすぐ浮かび上がる。どうしようもないほど遠くへ隔たってしまったところを思うに場所の優越といったものは否定のしようがない。時が過ぎ、街外れにある並木道は長く続き、道路沿いから樹木の香りが入り込む。女たちのあいだの街の不思議に誘い込まれるようにしてわたしは一日を過ごしていた。しかし離れてしまえばもうどうしようもない。世界はのっぺらであり、海のようであり、全体に行き渡らせようとしてもすぐかき消されてしまう。それでも、当時書いたことばをすべて繰り返す。まるで異なる印象をもっているそれらはすでにわたしのものではない。
はじめは慣れなかった場所に女が自らの居心地を生む姿をわれわれは見ていた。一度ヒーコは尋ねた、「明日からわたしと会えなくなったらどうする」? こうした質問はとにかくわたしを悩ませた。一体どのような文脈で発せられた言葉なのか検討がつかなかった。だからわたしは彼女の身を案じた。女たちが一日の切れ間、つまりは朝と夜の狭間に、都度みせていた遷移の有り様を胸が早鐘を打つなか眺めた。一秒として無駄にして良い、もしくは見落として良い時間などなかった。そこにある心配は老いではなく、消失であった。わたしは一日を終えようとするとき、その日どれだけ物を守れたのか、もしくは失ってしまったのかを数えた。ある日は館から気高く自宅へと凱旋した。ある日は別の国に来てしまったようだった。女たちの肢体にある全ての妖艶さがわたしを薄暗い異国へと連れていった。
「一体どこへ行ってしまうというんですか? ぼくは皆勤賞ですが、実は出不精でもあるんです、地区の外にはなるべく出たくはないのでね、探しにいくってのも難しいですよ」
ヒーコは手元のシーツを体に引き寄せながら内側で強い露出をほのめかした。
「どこにも行ったりしてしまわない、ただ会えないってこと」
このとき感じた痛みは今でも覚えている。長い休日のあいだ、静かな日差しが彼女を悩ませていたときだった。世界は一方向ではないと思い知らされた。向かい側にある女の感覚を探り、それを自分のものとして受け取ることこそが倫理であった。ゆえに倫理とは思い上がりである。女たちは言語のなかにもともと含まれるような言葉ではなく真理のそれを話し、言語によって追いかけられていた。それを忘れっぽいと称賛するかどうかはわたし次第である。ある日の女の言が深く傷をえぐりながら何事もなかったかのように流れ去り二度と発せられなくなるようなとき、わたしはそれらの多くを自らに繰り返しながら、現在の軽薄さと比較して甘い気持ちを抱くのであった。
女たちがいくら裏で悪態をつこうと表立って発言するときには逞しさや仮の誠実さをみせる、それだけでひと度抱いた憧れは奇妙なほど持続し、良い思考を持とうと毎朝心がけていたわたしは、決して二面性だと捉えることなしに、憧れだけをもって接した。だから女たちはわたしにはやさしかった、わたしは偽物だったかもしれないが、女たちは本物だった。わたしは騙されるということがなかった。なぜならそこにあったのは信頼というような論理関係ではなく、精神であったからだ。精神は実は何も求めていなかった。精神はただ単にあること、存在することを望んでいた。わたしたちは生きた、だから危められた。
娼館のかたわらから晩の女たちが歩いてきた。朝まだきから広がりつづけた木陰のなかを自由に行き来するように、女たちが押し寄せては引き返す。クレアは通りの反映に顔を浸したまま、階下を見遣った。居間は空っぽだった。電話は鳴らなかった。向かいのテレビの音だけが時刻を伝えた。通りの端ではスポーツバイクが停まっている。彼女は彼の姿を認めるまえに鏡に向かって髪を整えだした。「よくわからなくなってきたんです、これが適切かどうかが」と、男は伝えていた。だが間もなくベルが鳴らされた。扉をあけると彼はフロックコートを手に掛け、遠くから来たことの恥じらいゆえ内側にヘルメットを隠すようにしている。「そんなに縮こまらなくたっていいじゃありませんか」とクレアは肩をさすった、「もうやると決めたんですから」。女たちが働いたあとの空間で男はかすかに伸びをした。男はクレアの腰をみて嘆いた、いかにこれまで正しかったか、そして、社会に揉まれて誤ったか、と。どうすれば取り戻せるんでしょうか。でも、一体誰から? わかりません、もしかして、ずっとこうしていたかったのかもしれません。男は何かしらの確認をするようにしてクレアの顔をみつめると、また下半身のほうに近づいた。僕はセイコウした人間なんだ、けれども、どう言えばいいのか、ずっとあなたのことを夢にみるんです、残念なことに下の方ばかり。「お約束のものは?」と窓の方を向いてクレアは答えた。もし、あなたを許すことができなくなるとするならば、それは単にお金の問題になります。本当に、そういったことが可能なんでしょうか? 男は革財布を取り出した。「知っています、あなた方はプレゼントがお嫌いだということを。けれどもまずは受け取って欲しいと思います」。お金が数え上げられるまえに、サイレンが鳴った。馴染みの女たちが顔を出して通りを華やかせた。冗談はよしてよ、とクレアは誰にでも共通する丁寧さであしらった。女たちが慌ただしく裸になった時代があった。男たちは変わってしまった、それは酷いほうに、単純なほうに。山並みは陰影の跡を通りの先に隠した。模索のあとが街の随所に垣間見れた。窓辺に寄ると集中を保ったまま「女が運ばれるみたいだ」と口にした。ヒーコも嫌いだった——「危険なところがですか?」——いいや、その逆よ。きれいな女のベットに置かれたグラスへワインを注ぐ。僕たちはいったいどれほどの時間を性行為に費やすのでしょうか、文明や労働を差し置いて。分かっている、けれども何もすることはできないわ。クラクションが聞こえると、クレアは窓を見るのをやめた。美しいひとに会うと一週間はへとへとになりますね。毎日会わなくてはならない人たちというは一体どうされているんでしょうか。クレアは裏手からチャックを降ろすと、お金がとっても必要だわ、そして、こうするのよ、と答えた。
—— やっぱり噂は本当なんですね。
—— ここを続けていくためには、うんと稼がなくてはいけないのよ。わたしは辞めようとしたことなんか一度もないんだから。
—— 貴方なら何だってできる、家庭に入る以外は。苦しいのは体が働かなくなることです、頭も含めた体が。その原因はよく分からないことばかりですが、貴方たちに会えなくなることが僕にとって一番つらい。合法的にやっていくには、再開発の基準に合わせなくてはならないんでしょう? もっとも、娼館に再開発など相応しくないとは思いますが。
—— 一時的な引っ越し、その合間のデリバリー、強制的な立ち退きを免れるにはやっぱりお金なのよ。この通りも広くなるわ、だだっ広く、年老いたみたいに。
クレアは棚から潤滑油を取り出し、男に掛けた。
—— 引っ越しはあっと言う間に済むわ、けれども、また作り直すのは相当な手間ね。
—— もう同じ景色は見られないんでしょうか、同じ体験は許されないんでしょうか。僕は新しいものを求めてなんかいないんです。僕が求めているのは喜びです。
—— なんでも順番なのよ、あなたったら。
クレアは男の手を払い除けて、立ち上がった。
—— 僕は一杯色んなことをしてきた、もう何も学ぶことはないんです。だからせめて人助けはさせてほしい。僕はそのために呼ばれたんじゃなかったんですか?
—— そんな態度じゃ、あなたには務まりそうもない。まったく信用できないのよ。
—— 信用ほど危ういものはありません。一体どれほどの労苦が、この先に待ち構えているというのか。一体どれほどの愛がこれまで犠牲になったのか。
—— ひとは無理しなくては何も生み出せない。
—— 人助けしたいというのは嘘です。わたしは、女性にものをあげたいんです。とくに夜の女たち、選ばれた女たちに。物質的なものでしょうか、いいえ、全体的なものです。
カシミアの毛布を手に取った男は液体を拭き取り、脱いだときの倍の時間をかけてズボンを履いた。
—— しかしながら、叶わぬことなんだと気がつきました。これは貴方がたの管轄だ。無償の愛などというのは、残念なことに、存在し得ない。わたしはどこかであなたに何かを期待している。そうでなければ、ものをあげる必要すらないのです。悲しいことに、期待は裏切られた。どれだけの額を叩いても、実現できないのです。だからわたしは勝手に憧れ出した。他人に期待するのをやめにして、勝手に憧れた。
新緑ながら黄色くなった草むらが茂みとなり、外から内へと押し寄せて、往来を窮屈にしていた。時折の雨に湿り気は乾ききらず壁の表面に留まりだした。古い家は新しい角度から山に近づき出した。画家は不在のままだった。ヒーコは実業家との密会を重ね、コンピュータによる収入を補い余るものを得て、どんどんと地区から離れていた。ターシャはすでに辞めていた。グラボは数ヶ月で垢抜けた。ウェルズからの情報はグラボを通してクレアの耳に入っていた。警備となった男はときおりクレアを抱きしめにきた。枕には男の匂いが染み付き、洗うことすら躊躇いだした。
—— 結婚から性行為と食事を除けば何も残らない。
だが、女たちも男たちもここでは一緒になった、性を踏み台にして、様々な喜びを感じていた。だれも性やモラルを最後のものとして捉えず、必要なステップとして数えた。定点的に快楽は存在していようと、それは支点にすぎず、偽りを取り払えば、互いの理解に近づいた。例えばやり取りは明確になった。男たちはきちんと金を払い、聞きたいことだけを聞いた。女たちは巧妙な捌きで真実味のある言動を避けた。何もないところに拘泥せず、演出だけを心がけた。女たちのやわらかい肌は一生ものだった。男たちは自らの存在を賭け、互いを高め合いながら、大切に触れていた。こうした階梯を経たものだけが女たちにたどり着いた。卓越した女。彼女と外を歩けば、いかに喧しい言葉であろうとも、彼女の鼓膜を揺らすことはできないと知る。優れた女。自信といった野卑な形容を寄せ付けない、崇高な態度のなかに潜む物悲しさ。一体いくつもの愛を捧げなくてはならないのだろうか。
農夫らが田畑を潤し、平野を華やがせ、木造りの家を設えるように、娼婦たちが服を着て、はしゃぎ、商売をすれば、街の景観は保たれた。雨のなか街の反映が伸びるとき、車の往来は淡い光に置き換わった。車のドアが閉じられれば、好天のあとに暮れた地区では乾いた音が響いた。川面は有りようもない山裾の賑わいを映し、山の奥からはかつての賑わいが聞こえた。ヒーコは謂れのない言葉を受け取り始めていた。傍らでそれを見ていたパコは義憤に駆られた。けれども無駄だった、彼女の美しさはすぐに現実の情報と結び付けられ、息の吐きようもなくなった。女たちは沢山の言葉を読み、対処していた。一方で男たちは自分の言いたいことだけをいい、人の意見は聞かなかった。それはコンピュータ上でも同じだった。しかし、ひとに理解されようとする過ちは犯さなかった。
—— パコ、お願いがあるんだけど。
—— なんでしょうか。
—— これ、もうわたしが手作業する段階にない。貴方も久しぶりに働いてみるのもいいんじゃない。マネージメントをお願い。
—— いいですね、男が男のコメントを読むというのは。
—— わたしはカメラの前に座る。貴方は画角をセットして、適当に収益化を図る。
ヒーコはロッキングチェアに身を沈め、パコの動きをみつめた。食事はあまり取っておらず、いつの日か片付けた皿は棚の奥から暖色のライトを撥ね返していた。ヒーコは画家宛に手紙を書いた。元気にやっていますか、こちらは何時もどおりです、と。けれども画家からの返事はなかった。窓辺では彼の残した自画像が日に焼け、薄い斑点を浮かび上がらせていた。いつの間にか時は過ぎていき、女たちは「引き受け」という言葉を使って商売を続けていた。どうしようもないほど金は貯まったが、それが何かを変えるのには役立たないものであることは確かだった。仕方のないことを続けても仕方がない、快楽を得られると予め分かっていながら一体何の必要があって敢えて体験する必要があるのだろうか? 終いまで突き詰めてこなかった。「わたしは本当のことをしてこなかった」。美貌と名誉は永遠ではなかった。だが、卓越した女というのは、真の意味において革命家である。一年して彼女は娼婦をやめた、そしてカムモデルも。性商売から足を洗った、年齢が足枷となるところから離れた。彼女は身を売ることをやめたわけではなかった、彼女は美しかった、なぜなら彼女は彼女の一部であるところのアイディアを売り始めたからである。それはことごとく成功した、次の季節には沢山の男たちが彼女の下で働いていた。夜にはリムジンで出かけ、街ゆく若い男たちを乗せ始めた。地区の男たちからはほど遠い女となった。次の年には彼女が実業家であった。
ヒーコは思い出したころに画家の裁判費用を支払って、刑期を短くしてやった。画家は代わりに畏怖しながら露出のかぎられた肖像画を描いた。マータは彼女の秘書となり、工場の指揮を取った。そこでは徹底的に男が働かされた、視線は決められ、一切のぶれも許されなかった。クレアたちの何人かは引き抜かれた。クレアにはそれが許せなかった。とめどない季節の反映がわたしにも襲いかかった。今度は舐めるような一瞥を浴びせかけられる側となった。
—— 僕がどれだけ望もうが、もうお金は払えないということに、戸惑いを感じます。わたしがある程度働こうが、一切価値のあるものを得られないということです。必要なのは何でしょうか、わたしが求めていたのは結局、強制的な力、従わせる態度だということが、それが叶わなくなった今、明らかになりました。全ての女を抱こうとする、それも、性行為ぬきにして、目線だけで、すれ違うだけで、ある種の道徳的な達成をしながら、だが、独裁者はいなくならなくてはいけない。わたしは徹底的にやられてしまった、わたし達は敗北してしまったのです、そうでしょう?
—— 愛に勝ち負けなんてものを容れたくはありません、もっと自然に、ナイーブに生きていけたらいいと思いますがね。
—— ああ! それは倒錯だったんです、適当な流刑地に留め置かれながら、全く別のものを求めようとするなんて! 僕はそういう態度は女性を馬鹿にしていると思う、そしてまんまと我々はやられてしまった。学んだことは何でしょうか、学んだことというのは時間は真に無駄になってしまうということ、そして引き返せないということ。ある程度小さい領域で生きていかねばならない。
—— フィールドの外に出た方々を追う趣味はないんです、でもやられてしまって気持ちが良かったことに疑いはありません。
珍しく男と話し込んでいる画家の肩をグラボは擦った。そして全く頭を揺らすことなく周囲を旋回してみせた。女たちの肢体はこれまでに起こった出来事の総体でありながら、直近の過去とは無関係に、新たな窪み、白い驚きを与えた。グラボは奥の階段まで歩いてから、悲しい日々の過ごし方についてわれわれに伝授した。それから湖畔まで散歩をして、密になり始めた木立に入った。われわれは必死になって追いかけた、ゆっくりとだがもう立ち止まることができぬと確かに足が覚悟を持ったように踏み込んだ。街は暮れ、水面に暖色の明かりを投じていた。もう二度と持つことができないと感じていた。おそらくわたし達は死んだのだと。意味は失われ、かつて山や海にみたものは単純な論理的帰着によって解決されて出していた。いつの日かの憧れは物理式に展開され、感情は批判の対象となった。大変な痛みは簡単なパターンとして扱われた。大きな喜びは蔑まれた。それでも、真に愛し続けていた。わたしにとって最も意味したことを忘れなかった、そして、再びそれに近付こうとする努力をやめなかった。もう難解な考え、副次的なことはやめてしまった。態度は率直になった、そして理想に到達するため言葉を選んだ。日は沈み、青白くグラボの肌が草地の先に浮かんだ。スーツの襟を正し、ハンカチで手の汚れを拭いた。画家は感嘆としていた。それはわたしもだった。月が現れ、グラボを包み込んでいた。
世界は都度あらたな角度からわたしに責苦を与えていたが、その度に喜びは姿を変えていた。小さい町でとても印象に残った女のことを書き留めてから深い鬱屈とした思いに囚われてしまうようなとき、それでも前に進まなくてはならなかった。一体、どれほどの苦しみが先に待ち構えているというのだろうか? そして、新たな喜びは可能なのだろうか? 女性への関心を元手に、世界への信頼を取り戻すこと。全く性別の記しもない高度に技術化された領域から再び女性に至ること。ゆえに一切を理想に投じて、そのなかで憧れつづけること。一時的な態度や装いではなく、徹底した愛ゆえに、意識から性的な考えを消し去ること。わたしは精神的な去勢を選んだものの、後悔はなかった。体からにじみ出てくる欲望の焦りに近いものが、わたしの判断を正当化し続けた。
屋敷では食器が拍子に沿った音を出して纏まり、一斉に机が片付けられた。料理人たちが顔を出す。ヒーコにはわかっていた、こうした行為は遊戯にすぎないということも。それでも合図とともに楽器隊に演奏をさせて、男たちを労った。夕暮れはまだ続こうとし、晩から夜明けまでが明らかな短さをもって誘いをかけていた。森の詠唱は果てしなかった。そこに料理人たちの拍手が鳴り響いた。空は一旦明るさを取り戻し、寝室に待機させている若者たちが均整のとれた声音で語らうのが聞こえた。
—— どう、ひとり?
何もマータは答えなかったが、ヒーコの笑いは益々やわらかいものとなった。「男たちを呼びたいわ、昔のおとこたち。いくら叩いたって昔の記憶には変えられないもの」。森から街への一本道に沿って林立するヒノキは一日の最後の橙色の反映でもって支えられ、繰り返されようとする風の往来を何度となく新鮮な態度でもって受け止めていた。われわれはそこに動物がいるかは知らなかった、ただ、男たちが動物であったならば、辛うじて女たちも動物であった。いくら習慣化しようにも、どれほど飽いたと言おうとも、引き返すことはできなかった。あまりに全てが明白になった上で、事態を把握しながらも、無知を装わねばならなかった。
若者には報酬に見合うだけの働きが求められていた。ただでそこに居させるわけにはいかなかったヒーコは間断なく裸の姿を公開した。生活の安定と奉仕のため、もしくは平凡への恐怖と刺激のため、多くは屋敷に残り続けた。カメラは壁面に沿って滑り、男たちの肢体を立体に浮かび上がらせる。彼らは何の反映も見ておらず、ただペルシャ絨毯のうえで寝転がっているのだった。
—— 彼はいいわ。でも、わたしが良いって言いたくはない。
—— ではあちらの方から参ります。
—— 呼んでもだめなの、ああ、オーディエンスに伝えてよ。
こうした指示のあと男たちの身体は小刻みに震えた。明るいうち、窓の先が照らし出される間は、木々の先の筏が湖に浮かんでいるのがみえた。女たちは軽やかに漕ぎ出していた。ある男は見世物となった自分に驚き、恥じて、街へと隠れてしまうことを望んだ。あらゆる行為が犯罪であったにしても、讃えられることこそを優先していた。けれども称賛が全くもって耐え難いものになったとき、そのときに、かれの悲嘆は始まった。偽り続けた驚きが消え去った。世界は乾燥のなかに置かれた。だから再び忘れなくてはならなかった。そして離れなくてはいけなかった。女たちの嬌声から逃れ、手を使ってものを考えなくてはならなかった。
—— もっと叫んでほしいわ、ねえ、どう?
表面から顔をだした芽が、庭で暖色の光を受けた。
—— 美味しい、嬉しい、楽しい、ああ、なんと破廉恥なんでしょう、それがひとつの行為の延長でしかなかったとしたら。
—— 動物が自然を暗示するために飼われるのだとしたら、女性は世界を暗示している。男は? 何者でもありません。僕はともかく、男がいたところで、何の風景も広がらないでしょう。ところが、あなたがいれば、欧州の島も、砂漠のオアシスも要らない。あなただけで十分なのです。
ヒーコは着物を掛けた姿見の裏に回り込んで、目を閉じ、男たちの称賛を聞いていた。彼女は長い客商売を終えて、太り始めていた。今まで抱えたことのなかった脂肪を腹にたたえ、窮屈に皮を張らしていた。けれどもここでは彼女が美だった。男たちは美に全くもって疎かった。金銭への愛と混同してしまっていた。
—— わたしはこうした感情を徹底的に守り抜いてきました。感化されたものとしての責任を取り、誰の誹りも受けぬように、幾つもの行為を禁じてきました。それは他者の批判では決してなく、真に憧れるために、自らを高め続けることでした。けれども、女が秋の階段を登る、なぜそれだけで満足してしまうのでしょうか。
戸口からまっすぐアールデコ調の階段を登り、個室にこもるだけで讃えられた。男たちには彼女が全てだった。彼女の肌の冷たさが夏の避暑地だった。彼女の眼差しが夜明けだった。一体いくつもの形容を重ねなければならなかっただろうか、一体どれだけの言葉が必要になっただろうか、美を軽い気持ちで受け止めるため、美から自分を守るために。だが徒に言葉を書き連ねた場合失ってしまうものがあるように、男たちは自分たちの言動にすら酔いしれた。
—— 残念ながら、健康な精神は些末な事態を忘れゆくものです。悲劇は笑い話に取って代わられ、美醜はシンボルとなる。ではなぜ人間は痛みを好んで繰り返すのか。
ガラス細工の灰皿を持ち上げ、蛍光灯の光を顔に散らばした画家は館の奥で騒動する女たちの発言を一語一句確かめながら、深い感覚と、極度の諂いのすべてを彼女たちに捧げた。近くのテーブルには描き溜めた春画が裏返しのまま下敷きとなり、遠ざかろうとする夜の風を入れ込んで間欠的な厚紙の音を鳴らしている。グラボはまだ形の崩れていない吸い差しを独り言を続けながら拝借するのだった。窓には輝きがあった、女たちには艶があった、それはまたもや訪れようとする季節の匂いと味に魅了されながらも平常の中に喜びを見出そうとする何か恥ずかしげな男たちの、慰みとなって現出していた。彼らはやさしい女が好きだった。それはいつだってそうだった。だから経験がものを言った。女がやさしくなるよう仕向けた。けれども偶然が幅を利かせていた。男たちは株屋のようだった。辛抱強く相槌を重ね、女たちから素晴らしい言葉を引き出した。
—— どんどん減っていっちゃうわ、お店。
グラボはミニスカートから出てくる素股を画家の腰の横に落ち着けたあと自らの足を組み合わせようと試行し、ソファーを深く沈めた。汗と時間を経た香水とが湿った空気のなかで同化し、画家の思考を遮った。
—— いつでもそうであったように、これからそうではないということは有り得ない。つまりいつでも、喜びは可能だということです。ただ、一歩だけ踏み出す必要がある、風景を変えることは可能です。皆があなたになればいいのです。あなたが憧れであったならば、憧れそのものとなればいい。何があなたに従わぬというのでしょう、雲も、舟も、影も、あなた次第なのです。憧れたるわたしがここにいる、景色は裏返しとなり、全ては実現される。
—— わたし一人じゃとっても生きられないわ、ゴミだって出せないんだから。
—— 誰かが勝手に出してくれますよ。あなたは感覚のままに生きればいいんだ。
—— まあ素敵。
広告類を収めたバインダーは女たちの間を巡って、画家のもとへと届く。弁当や化粧水、旅行の、そのどれもが高くつき宵の計算を難しくする。リキュールが配られるものの、味は薄く、口の締りはない。夜道に靄がかかり、土埃と熱気、そういったものが飛散した。グラボは訊ねた、何を買ってくれるのかと。画家はうなずいて可能な限り距離を詰めたが、まだひと一人分離れている。
—— 田舎にコテージを買ってみんなで移ったとしましょう。最初は楽しいかもしれません、なぜならこの街ではないのですから。けれども徐々に状況を理解することになるのです。百年前もきっとそうだったに違いない、何も行われていないところだ、とんでもないところに来てしまったんだ、って。そして誰が一体最初に言い出せましょうか、わたしはこんなところが嫌だ、わたしはわたし自身の目的を持って生きたいと。しかし、どういった場面であろうとあなたとなら喜ばしい。本当に愛すべきところで愛せないのはもう嫌なんです。
女たちの背中に染みた汗は目まぐるしく下着やタンクトップを浮かび上がらせ、画家を驚かせていた。ある女は黒色だった、あっちの女は水色だった。世界で最も大事だと思われる事が繰り返されるその中心で人は祈ることしかできない。
—— ひとりの人しか愛することができないというのは弱さに違いないんです、ふと気づいたときには恋に落ちている、だが同時に全ての存在を愛することをやめてしまっていて、どこか近づきやすいひと、忘れてしまってはいるけれどもかつてわたしを愛してくれた存在の面影に惹かれてしまっているんです。だから、皆さんがこれほど好ましいというのは素敵だ。わたしはもういなくてもいい、なぜなら実現されたからです。
そうした言を繰り返しながら男が去ろうとも、女たちだけになろうとも、館の賑わいは続いた。窓からは逞しい女のシルエットが立ち現れる、その人間は一日限りであり、ひとつの名のもとに集う艶や華やぎの集合体であった。別の日には別の存在へと打って変わった。女は男になった、男は女になった、相手がなんであろうと熱烈な感動を抱いた。すべての存在に詩を捧げ、対象を一つに限定しない極限の愛を数秒ごとに振りまいた。だから、去るものは追わなかった。来るものは愛された。それゆえ、肉体など必要なかった。数瞬の一瞥、それが全てとなり、数万の時代を讃えた。
湿気の抜けない広間に閉じ込めた若者にヒーコはエアコンからの風を送るだろう。彼らはひと仕事を終え、耳は紅潮し、下半身は弛緩しきっている。ヒーコが言ってはいけないことを囁く、すると、何人かの青年は恐れを抱いたかのように顔を背ける。夕方のドライブでは山を経巡る、大変な色付きが山の草原を襲い、風車の羽までもが淡い影を抱えている。もしくは邸のまえにトルコ絨毯を広げ、男たちを寝そべらせているかもしれない。通りには彼女の不在がつづき、いなくなった女の、消え去った女の、ありとあらゆる可能性が立ち現れた。わたしは窓を余すことなく開け広げ、偽りの感情をすべて取り払い、これまで望んできたこと、これまで感じてこれたこと、一体これからどうするべきかなど曖昧な結論しか得られないとわかっている事柄について何の躊躇いもなく思索した。
画家は立ち止まり、館をみつめた。外套に深く身を埋もらせた娼婦が幾つかの窓から手を降っている。深いお辞儀をして去ると、通りに立つ女に声をかけた。女は少しだけ強気の価格を伝えたが、画家は素早く踵を返し、女に後を追わせた。女はもう若くはないといった感じで画家に家のあるほうを伝えた。「急いでいるんですか? 僕は寄り道も好きなんです」と言った。女は「もう遅い時間だから」と返答して、裏路地経由で道を急がせた。画家はそうした不思議な女の在り方、もしくは女の不思議な態度に恍惚とした困惑を覚えた。それでもあまり豊満だとは思えない体つきとそれに伴う体操めいた歩き方は地区では新鮮に映り、一体どうした生が彼女に降り注いだのか、そしてこれからどうするのか、ただ深く知りたいと、ありと汎ゆる勉学の基礎に設えられる原則のように知的欲求を掻き立てた。女の尻は平らだった、女の髪は短かった。ジャケットは緑で、スカートは黒色だった。だから愛した、そこに理由はないが、一二瞬で愛してしまった。もう彼女なしでどう生きていけばいいのかわからなかった、すべての地位を犠牲にしても、彼女のために名誉だけは守らなくてはならなかった。女は決してお金では買えない。売春とは男が徹底的に蕩尽することである。何十年かの生の歩みのなかで見えてきた人生の計画とやらをかなぐり捨てることである。金も将来もなく男はやがて捨てられるのだ。画家は自分の境遇を察した。女に「ありがとう」と伝えた。女は「どういたしまして」と返した。すべての手筈が整った。ふたりは地区外れの川岸にあるバラックへとたどり着き、勢い良く前に進んだ。雲にはいくらかの鳥が紛れ込み、静寂が大きなエコーを演出した。山は偉大さを取り戻した。海は近かった。全ては訪れようとした。天井の低い物置めいたところには白いシーツの掛けられた単身者用の寝台が表れた。薄明かりのなかで女に笑みはなかった。「脱ぎなさい」と彼女は言った。画家は実直な様子で「はい、ミストレス」と答えた。男の手は冷えた体と灰色の靴下の境界が曖昧となっている部分で前後する。手も冷たければ、足も、服も冷えていた。女たちのこと、一体館の女たちはどのような服を着て体を温めていたのかを思い出した。緊張から腕が震え、なかなか肌から切り離すことができない。下着は鎧のように重く、温もりさえも吸い取った。
—— 急ぎなさい。
—— ハイ!
画家は女の前で裸だったが恥ずかしいとは思わなかった。指がさされた方に赴く。あまり好ましくはない扉の先で体を洗えということだった。思考を無にして入場する。頤を上げると、そこでは服を着た二人の男が待ち構えていた。それは外国のタクシーでよく見られる光景だった、相乗りと呼ばれるものだった。時代も時代であり、何でも一括が好まれた。環境破壊という言葉が流布していたが、実状は逆で、自然が人間を破壊していた。ゆえに自然を前にして事を荒立てないよう、紳士にならなければならなかった。それは女のまえでも同じだった。「皆さんはどちらから?」と画家は運命を共有するものだけに許された開けっぴろげな声音で問うた。無言のままふたりの若者は画家を見つめ続けた。「洗いますからね、こういうのはさっさとやったほうがいいんだ」と言って、コンクリートの壁に申し訳程度に据えられたシャワーヘッドを持ち上げ、膝下に見つかった蛇口のレバーを捻った。「服を脱がないと掛かりますよ! そういうのがお好みなら致し方ありませんが!」。こうした画家の貞潔と慎みに感嘆しもするだろう。皮膚の至るところから煙草の優れた匂いを流すと、赤子のように腹を煌めかせて、画家は他の男に引けを取らないまでに若返った。「さあ、行きましょう!」と画家は湿り気を帯びた手で男たちを押し出す。男たちが寝台の横まで来ると部屋の隅のほうにいた女は「しゃがみなさい」と伝えた。先導していた画家は他の男たちを促すようにして早速しゃがみこみ、祈りの姿勢を取った。
—— あなた、この地区で毎日何をしているの?
—— お許しください、わたしは自分が何をしているのか分かっていないのです。分からせてくれませんか?
女が目配せをする。すると後ろに侍ていた痩せ型の若者たちは画家の腕をそれぞれ持ち上げ、天井に向け引っ張り出した。画家は言った、「痛みを感じます」と。女は言った、「それでいいの」と。
国道から山に向けてある通りの広場まで夜の空いた時間を利用して、わたしは小一時間の散歩に出る。わたしはクレアに連絡を取り、なにか必要なものはないか、何かお使いできないか、と尋ねたものの、彼女からの返信はなかった。消灯済みの商店から出てきた女たちが欄干に凭れた女たちの前を過ぎていく。前方からは雲が押し寄せ、低い建物ばかり並ぶ地区の頭上を超えていった。かつて抱いた幸福なイメージに苛まれる。わたしは一体どこに行けばよいのだろう? 川岸では女たちの燥ぎとせせらぎが滞留し、驚いて立ち止まった男たちに掃除夫が声を掛けた。この思いをどう伝えればよいのか。何かの物事に集中してそれが世界の中心となったとき、如何に持続させるかが問題であった。相手にこだわるのをやめて全てを受け入れようとしていた。ただ素敵なひとに憧れているだけではいられなかった。少し気分を損ねながら自宅にもどると、上階からは静かな、だが絡まったようなピアノソナタが流れていることに気がついた。女が複数人でいる。そしてどれも知らない声をしていた。わたしはそういったときに驚いてしまう、同時代の人間が気軽に夜更しをしているということに。数分間扉の前で立ち止まったあと、音を立てないように玄関を開閉した。古びたジャケットを押入れに仕舞い、夜の機械音だけが聞こえる書斎の椅子に腰掛ける。まず耳に残った第一の女の声をなぞるように繰り返し、そこに見出すことのできる事実、虚偽、科学、歴史を言い当てようとした。女は娼婦に違いなかった。そういったことは、どういった常識や教養より重大だった。ひとりの女が世界のほかのどこでもない、頭上にいるということが意味することの全て、もしくは写真のネガのようにひっくり返して、意味しないことの全てを捉えようとした。猥言混じりの少し擦れた態度は当然のことながらわたしのような人間を嫌うものだった。わたしは彼女が所属してきた社会とわたし自身が属してきた社会の間で生じている不和を認めて、反省と痴がましい改善の方法を探ろうとした。だが第二の女のやさしい声音に急かされていた。わたしは一切の学びもなしに第二の女の方を考え出していた。「一体あなたはどこの方ですか?」「一体あなたはどこからやってきたんですか?」「一体あなたはどなたなんですか?」といった基本事項を何度も反復する。そうした問いは徐々に変容し、「わたしより長く生きてください」という懇願に変わっていた。隣のビルの向きに窓を開けて、上階から音を取り入れる——
—— ウェルズさん、本当に大きい身体しているわ。逞しいったらありゃしない。どこでも大きいんだから。ハッハッハ。
—— 僕は何でも食べてしまいますからね、気づいたらこんなふてぶてしくなってましたよ。元々は小柄で、心配されるほどだったんですから。
—— ほんと、大きくなってよかったですね。
—— もっとも体力だけには自信があります。プライヴェートを充実させるためにどれだけ睡眠時間を削ろうと僕の精神に変わりはありませんよ。寝るのは一種の娯楽です。
—— これも巻いてくださる?
—— お教えしましょう、こうやってまず端に唾をつけるのです。
短い音が続いたあと、部屋は徐々に静けさを取り戻した。わたしは重い体を持ち上げた。中古のコンピュータを棚から取り出して、迷いなくポルノを開いた。けれども、陰った部屋の中で日頃認められるやわらかさのイメージは何処にも見当たらなかった。女たちはただ裸になっていた。お金を送っても反応はなかった。だからまたコンピュータを仕舞い、暗い窓の方に耳を欹てた。地区にいる女たちが自分の全てになっていた。
昼すぎ、寝覚めてみると夜の語らいは大通りを行き来する車の離れる音に変わった。わたしは知らないひとびとが自信をもって前に進み、交通を形成しているということに戸惑いを覚えた。何台かの車は女が運転しているに違いなかった。そうして何人かの女は本当に素敵に違いなかった。わたしはまだ目を開けずに、一日を始めるための慰めを得ようとして、夜と比して静かな煉瓦通りを隔てて届いてくる音を意識した。日はまだらに移動する影を生み、山までの距離を近くした。土手から河口までは風が吹いていた。寝起きに元気な女性には驚かされる。強いあこがれを抱かずにはいられない。その憧れだけがわたしを起床させるのだった。
空のレターボックスに目を向けた。ヒーコは体の震えを抑えるのに必死になった。また待つ一日、そのなかでは過去の称賛が恐ろしい。女たちに、男たち、過去を一日も振り返らない人間が恐ろしい。少しジョギングをしてみたところで日が暮れるだけだった。訪問客は深い健忘症にかかったように、笑顔を向けて、かつての行いと無関係な言動をしてみせた。「今晩、空いてますか」。ドアの向こうの池では、まだ、男たちが立ち止まっている。若い男にすがっても、そこから駄目な男が浮かび上がった。女たちの世話をすると、一体どこの時代にいるのか分からなくなった。幼少期の工場のことを思い出す、木くずに塗れた作業台を。
昼間、ゆっくりと照った太陽は、また角度を変えていた。秘書を呼び出し、実業家を庭から追い払うように伝えると、外出の手筈を整えた。二階から降りてきた若者たちは彼女に選ばれる瞬間を心待ちにしていたものの、ヒーコは誰のことも顧みずに、白い自動車に乗り込んだ。
木の中に入り組んだ邸の光は冷たい風に攫われた。街までの間にある草地には暗闇が広がったが、それがとても悲しいことのように思えた。その先で禄を食む女たちは確かに生きてはいたものの、悩みは尽きなかった。ひとは何処でだろうと生活など出来はしないのだった。煉瓦通りから距離を取って、川辺にあるアトリエへと到着したヒーコは、勝手に中へと入っていって、画家と対面した。
—— 冗談でしょう?
隅々まで埃が付着し新鮮さを失った包帯を纏った画家が、暖色の灯りのなかソファーに横たわっていた。徐々に形状を変えながら腕が伸ばされ、それが明後日の方向に向いている。
—— すべて冗談みたいなものです、けれどもわたしは本気だった、冗談に対して本気になった。嗚呼、まだ懲り足りないのです、どうやって収めればいいのか。
ヒーコはフランス窓を開け、凝った空気を川下に流した。
—— ひとりでとってもお辛いでしょう。誰も看病してくれなかったの?
—— 何もかもが回りくどかったのです。全てが間接的でした。わたしが「本当のことをしてください、本当のことではないと断ります」と言ったら、みな帰っていきました。
ソファーの影では宅配の弁当箱が十数個重ねてあり、それが誰の目にもつかないよう古書で覆ってあるものの、日を経たオリーブ油の単調なにおいが画家の頭頂からしてくる。画家の淋しい頭は湿り気なく、血の気もなく、頭髪の名残もなかった。包帯付きの四肢と胴体、そして顔と股関節に個性は認められなかったものの、全体の均一性から画家であるに違いない。
—— あら、曲げられてしまったのね。
暖炉に近づき、灰をかき混ぜた。かつての季節が静かに眠っていた。トングで埃を立てるごとに、暖色のライトが遠くからその中を貫いた。弁当箱をまとめ直し、台所まで持っていく。換気用の細長い窓を開けると、運転してきた白い自家用車が庭を経て薄っすらとみえた。
—— ヒーコ。
女たちの呼ぶ声が聞こえる。女たちの賑わい、男たちの世話、館は歩いて間もないところにあるのだった。ただ車でいくには細すぎる通路が続いて、女たちはいくら望んでもかつての人々と再会できるとは限らなかった。もう認められなくなった面影を前景としていた建物があの頃と変わらない壁面を留めていて、全く知らない女たちが囲んでいる。どうしたら続けられるだろうか? ここでは生きるのは容易かった、けれども、あまりに隙を見せすぎた。冬でも露出のない服は着れたものじゃなかった。あの時の空気が、一年を経て肺に帰り、当時の感覚をあげつらった。ヒーコは一通りの清掃を終えると、寝てしまったに違いない画家の横で裸になった。鼠径部に太腿を当てた。微妙に出てきた分泌液は包帯に染み込み、すぐに乾いた。
慌ただしく客と出会うなかで、簡単に捨て去ることのできる態度がいくつも身についた。いい紳士服を着た男への手つき、だらしのない男への愛想笑い、卸売りに対する抑揚を欠いた声、それらはどれも後から習得したものだった。クレアは元の自分がナイーブであったのか、高潔であったのか分からなくなっていた。ころころと感情を変えて原稿を読むラジオのアナウンサーに俗っぽさではなく、いつからか逞しさを認めるようになっていた。濡れそぼった画家が川辺から運ばれてきたとき、真っ先に悲鳴を上げたのも、冷静に医者を手配したのもクレアだった。彼女は涙もろく、そして忘れっぽい。だから周囲に公共の建物ができ始めて、旅行客や家族連れが娼婦の前を通ろうと、石を投げ込まれようと、あまり深くは考えなかった。田舎の幹線道路沿いで商売を続けたくない、簡単に賑わいがほしい。それは女たちの共通の願いだった。クレアは騒がしいところでしか生きられないと自覚していた。自分を高めてくれるような男が必要だった。だが、客や娼婦が季節を置いては襲われ、また何もない季節が続くと、女の数が減っていった。
階段下の物陰に倒れた箒を持ち上げ、まずは箒自体に付いた衣服の赤い糸、下着のタグの欠片などから成る綿ぼこりを通りの石畳と打ち当てる。枝先から夜の寒気を経た砂が漏れ出てくる。だがそれを吸い込んでしまいそうな女たちは歩いていなかった。彼女たちは美味しいものを食べようと暖かいところで丸くなっているのだった。新聞配達員、牛乳屋、葬儀屋、朝から早いのはそういった男たちで、放屁しようがげっぷしようが顔を顰めることはない。時折、新入りらしき若者が代わりにやってきても、徒らにアピールだけしては辞めていく。彼らにもヒーコは有名だった。いまでは太っちょのヒーコも。風車が雲のなかで半ば陰り、曖昧な光を映じている。山の先の幹線道路、地方での暮らし、荒々しい男たち。また物陰に箒を立てて、二階から出てくる女たちを見送った。調理場にいるグラボには今朝のメニューを伝えて、自室で新聞を開く。午睡までの間にできそうなことは何も無かった。疲労がアイディアを遮って、のんびりするしか仕方なかった。
画家の書斎で仮眠を取っていたヒーコは表が賑やかなことに気がついた。本棚と扉の先、画家の眠るソファーを超えて、玄関のステンドグラスが色を失った。次には端が割れて、隙間から手が伸ばされていく。皮膚が刺さって、叫び声があがり、次は窓の全面が割られた。ヒーコは裸のうえに毛布をかけたままの姿で呼びかけたが、画家は寝ていた。「こう引くんだよね」。古い習作が並んだ机の上に手を伸ばして、ポーチから拳銃を取り出し入り口に向けて二発弾を撃つと、静かになった。体の冷えを感じて、また毛布を強く胸に巻きつけたが、出てきた汗が乾き切らない。ソファーから離れるように割れた窓まで回り込んで先をみた。そこには石の歩道と、芝生に、ポプラが続いていて、誰の姿もなかった。
—— なんでこんな寂しいことになっているんでしょうか?
男たちは現代化して荒んでいく地区を訪れては女たちに嘆いていた。社会がどうなろうと知ったことではなかった。だが大義を捨て去っていた画家でさえ女たちのことになると憤りだした。自警団が形成された、客たちは時間を捻出した、娼婦はサービスを怠らなかった。岩場での射撃訓練、ブティックでの護衛、野菜の買い出し、そこまでは頻々と行われなかったいくつもの出来事が結果として時代を象徴している。われわれの自我は僅かな出来事ばかりに重きを置きすぎている。一体どういった花崗岩が打ち砕かれたのか、一体どういったビキニが着られたのか、一体どういったオレンジが吸われたのか、そうした真実はすでに歴史のなかへと葬り去られている。だが、敢えてここで思い出そう、女たちへの憧れを、アンソニーとシーザーのことを、今まで女のために続いてきた何百万の世紀のことを。フィルムや紙がなくなろうと、永遠に続けられるだろうこの営みを。男たちは体を鍛えて筋肉を増やした、美味しいご飯を沢山食べた、そして葬り去られていった。
—— これをどうしようと勝手だけどもね、あまり目立ちすぎないでくださいよ。わたしたちもちゃんとした許可を得て販売しているわけではないんですからね。つまり買う側の問題ですよ。争いも何もかも、みんなそうなんだ。
—— いくら練習してもうまく行くかは分かりませんが、実力がないと何も始まりません。紛れ当たりや幸運が地力を損ねることだってあります。わたしたちはセイコウのためにやっているんじゃないんだ、名誉のためなんだってことを肝に銘じましょう。つまり上手く失敗し続ける必要があります。本当のこと、自分のためではない、本当のこと、自分自身に対して不名誉であればあるほどうまくいってしまう、ならば汚辱に塗れようが練習を続けなくてはなりません。
屋上から覗く白いバンは地区を走っているとは思えぬほど色彩を見せず、横に引かれた一本の黒い影だけが車体の冷たさを露わにしていた。クレアがそこに乗っているかは定かではなかった。ただ女たちには違いなかった。薄暗い通りに進入すると車は灰色になり、昼間の静けさのなかで動きを止めた。停止した車がわずかに軋めば、この通りでは理解された。だが全く空気を振動させず、陰のなかで埋もれ続けた。
グラボはゆっくり口を開くとマータの座る助手席の方へと煙を吐いた。彼女の首には消えそうにない深い皺が絡みつき、それが後部座席に座る匂いの強い女たちの確認を妨げていた。窓を安易に開けられるほどの気温でも立場でもなかった。邸から館までの、ほとんど出発地が到着地に似ていたなかでの、ドライブが女たちに商売人としての態度を貫かせた。毛皮のコートを着た若い、だが経験豊富な女はポケットからペットボトルを取り出し、蓋をわずかに開けて茶褐色の液体の炭酸を抜いた。
—— 六時ちょうどに出ますから。
女たちは誰かが動くのを期待していた。荷物を数え上げ、運び込むまでにそれほどの時間は掛からなかった。だが場所を離れるということが女たちに課したのは時間の制約ではなく、時代の変化、着こなしの変化であった。出稼ぎは趣味じゃなかった。ある者は留まることを決めていた。それでも大多数が離れようとしていた。個室に籠もっていたクレアは立ち去る女たちの顔を見はしないのだった。バンが開き、女たちが左右と後方から降りてくる。日頃路上に立つ女たちが空ける数メートルの距離が女たちの行進でも再現された。女たちが階段を登る、路上は空になる、そして通気口のそばでは寒波が音を鳴らした。一体どれだけの時間を要したのだろう? 一体どれくらいの時間が必要になるのだろうか? それはかつて抱いた憧れを忘却するには十分な時間で、だからこそ、長ければ長いほど、ひとは目的を逸してしまう。平和とは時間のことである。そして忘れた頃に、また同じ恋を繰り返すのだった。経験を積んだ男たちはすぐに愛を告白する。時間への恐怖ゆえ、最も大きく憧れるために、手が早くなる。女たちがどこへ行こうと構わなかった、けれども、長く厳しい冬が続いた。
わたしはもう詩を読んではいなかった。寝起きの、もっとも脆い、全てが押し寄せる時間に、ひとつの言葉が十の言葉へと、十の言葉が百の体験へと結びつく時刻に、わたしを守る他者の言葉は見つけられなかった。思い出したい、本を読めば読むほど、無知に陥っていた時代を。情報に接すれば接するほど、軽薄になった時代を。中古のパソコンを開き、この国では見ることのできないはずの女たちの画像を、しっかりと眺める。朝まだき、台所の静寂が、ベーコンエッグを焼く音と女たちの声で破られるとき、確かな生活の実感が肉体を通して表れる。わたしは窓をわずかに開け、静かな館のほうを向く。かつての女たちの声が注いだ水のなかから聞こえるとき、嗅いでもいない匂いがするとき、自分の終わりを思わずにはいられない。
丁字路の角から車の往来をみる。見晴らしのよい路上から走行音が登ると癖のついた短髪が更に持ち上がった。多くの人間が過ぎ行き、誰も三階までは目に触れない。煙を吐き終わると、窓を開けたまま、丸い木机に戻った。
—— 少し考えてみたかしら。
またコーヒーカップを手に取り、冷えた液体の匂いを嗅いだ。
—— あなただったら結構稼げると思うんだけど。
会議室は入ってきたときから色付きを変え、匂いも女たちのものになっていた。新緑のくすぐったい音が続いていた。若い鳥が日暮れの陰のなかへと消えては、また小さいシルエットを生んだ。
—— MB化学工業の社長さんですか?
—— 知ってるでしょう? CMとかで見たことあると思うわ。
冬が残した大気の白さが辺りを包み込んだ。力尽きて萎れていた枝や看板が、地面に戻り、また膨らみ出した。また一からはじめなくてはならなくなった喜びが、季節の終わりなき沈黙を前にして、姿を晒した。
—— ボーイ、もう一杯。
タミエはまたかつてのことに触れ、前のめりになり、愛着はなくとも長年の経験が着こなしを可能にしているカーディガンに窪みを与えた。
—— ヒーちゃん、悪いけど。わたしはもうサーヴィスは辞めにしたんです。
—— あなたには権利があるのよ。誰にでも言ってるんじゃないんだから、ね。
通りに埋もれていた大型のトラックが浮かび上がるように離れていったが、遠くからではその重量の深刻さが見えてこない。混じり気のない陽光で梅の花がまっすぐ照った。
—— 発展していかないと、自由が得られないじゃない。いつまでも生身で生活はできないわ。タミちゃんが自衛してるのは分かるけど。
ボーイは日当たりを気にしてブラインドを下げに回ったが、途端に部屋が暗くなるのを恐れて、雲の動きを確認した。バーに行く、酒を飲む、深い眠りにつく、往来ではその流れが顕著になっていた。もう女なしでは意味がなかった、女性のために生きなければならなかった、男たちだけでは生きたところで仕方なかった。
—— どんな日程ですか? 夜は早く寝たいんです、美容のためにも。
—— 最近何時に寝てるの、タミちゃん? 合わせてあげられる。
—— 合わせるたって、色々制限があるんです、食事だって。
絨毯は少し赤色を見せていた。窓辺の花は枯れていた。卓越した女、地道な女、誠実な女、そんな素敵な女を見るたびに、家に泊めてあげたくなる。そうして今までに何人の女を迎えることになっただろうか? 愛は有限だった、本当の女だけを探し求めなくてはならなかった、だがヒーコは手当り次第に事を進めた。
—— もしかして、普通の男と会ってたり。
—— ほんの少しだけです、知り合いの方がどうしてもって。
—— 次はいつ?
—— 今晩。
日没前に蛍光灯を輝かした中華街はオフィスの先にまで香りを伸ばし、通りの頃合いを変じてみせた。窓から窓へと続いた反映は果たして緑色の木々により潰えたが、あとには陰った公園が広がった。
—— 沢山の楽しみがあるわ、世の中には財産を手放したい男たちがいるの。一体誰がその手助けをしてあげられるのか。わたしたちしかいないじゃない。
—— ねえ、普通の男からお金を貰ったって、いいでしょう?
—— わたしは小銭で頭を悩ます話はしていないの、人生と経済の話をしているの。
女の顔がまたいつかの表情をみせてもそれで同じ驚きを抱くことはない。そこに認められるのは自分自身の過去と経験であるにもかかわらず、いつまでも捉えきれない何かに怯えることになる。だからこそ反省しなくてはならなかった、どんな女たちの喜びも受け止めなければなかった。混乱に身を委ね、砂漠のうえで、沖合で、対岸で、憧れだけを抱えなければならなかった。真に愛するためには沈黙する必要があった。どんな女たちの攻撃にも頬を差し出さなくてはならなかった。だからこそ幸福は容易かった。苦しみこそが意味を成した。ありとあらゆる女の喜びで満たされる必要があった。決して女を批判してはならなかった。女性が敷いたレールの上だけを走る必要があった。そのレールは地上には無数にあり、いくつもの過去から伸びていた。